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B級ミュージシャンとして生きる美学~「エッジィな男 ムッシュかまやつ」

2017.11.14

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一世を風靡した年若いスターがヒット曲に恵まれなくなり、人気が急速に下降してメディアに取り上げられなくなり、世間から徐々に忘れられてしまう。
かつての栄光の日を取り戻そうともがいてみても、二度と泥沼から抜け出せなくなって自滅していく。

そんな現実を身近に見てきたからだろうか、かまやつしろしは独自の”直感力”をはたらかせて、実力以上にもてはやされることを回避してきた。
そして穏やかで漂々としたキャラクターをつくりあげて、B級ミュージシャンとして生きる美学を身につけた。
それによって最後まで、現役のミュージシャンとして生涯を全うすることができた。

先ごろ出版された「エッジィな男 ムッシュかまやつ」(サエキけんぞう 中村 俊夫・著)には、”直感力”についての記述が出てくる。

人気稼業がゆえの冷酷な現実を、盟友である三人ヒロシの仲間たちの姿を通して若い頃から肌身に感じていたであろうムッシュにとって、スターダムにのし上がると言うことは決して手放しで喜べることではなく、成功と引き換えに待ち構えている大きな落とし穴の存在をとても警戒していたように思える。それもまた彼特有の”直感力”なのかもしれない。


1958年2月に突如として巻き起こったロカビリーブームでは平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスがスターダムに駆けあがって、”ロカビリー3人男”と呼ばれた。

その直後にウェスタンカーニバルで売り出されたのが”三人ヒロシ”、パラダイスキングの水原弘、ドリフターズの井上ひろし、そしてワゴン・マスターズのヒロシ釜萢である。



そこから1959年の後半に「黒い花びら」が大ヒットした水原弘が、第1回レコード大賞を受賞してスターの座について歌謡曲へと転じた。
そのときに水原が抜けた”空席におさまったのが、スイングウェストのバンドボーイだった守屋浩だ。

その守屋は1960年に入ってすぐに「僕は泣いちっち」がヒット、そこから歌謡曲路線へと進んで続く「有難や節」が大ヒットした。
井上ひろしもまたその年の秋、戦前の流行歌「雨に咲く花」を歌ってリバイバル・ヒットをものにして、同じく歌謡曲に転向していった。

そして一度もヒット曲が出なかったかまやつだけが取り残される形で、”三人ヒロシ”は自然消滅してしまう。

ところが若くしてスターになった3人の栄光の日々は長く続かず、人気が下降するにつれてキャバレーまわりなど、営業の仕事で暮らす冬の時代を迎えた。

水原は1966年に「君こそわが命」をヒットさせて華々しいカムバックを遂げたが、3年もしないうちに冬の時代に戻ってしまった。
そして復活を目ざしていた1978年、巡業先で動脈瘤破裂のために入院して、そのまま死亡している。享年42。

長く続いた低迷期に見切りをつけて料理店を経営しようと井上もまた、調理の勉強を始めた1985年に心筋梗塞のため急逝した。享年44。


「エッジィな男 ムッシュかまやつ」を読んでいると、フランス語に由来するムッシュという名で愛された人物が、若くて無名の頃から一貫してミュージシャンであり、亡くなるまで表現者として音楽を作っていたことがよくわかる。
著者のひとり、サエキけんぞうが「はじめに」でこう述べている。

 多くの人はムッシュをカメレオンと呼ぶ。一口にいい表すことができない多様な色をまとい、様々な場所に現れ、有名無名を問わず広い人脈と交流を持ったからだ。「俺はムッシュと親しい」、そういう自負を持つ人も「こんな人と付き合ってた?」「こんな音楽やってたの?」と驚かされたことが多いのではないかと思う。そんなムッシュをできる限り調べた。


ロスアンジェルス生まれの日系二世だった父は、戦前の日本にやってきてジャズトランペットのミュージシャンとして活躍した。
戦後もミュージシャンだけでなく、ジャズ・ヴォーカルの先生を務めた。
かまやつはこの世に生を受けたときから、芸能界やショービジネスの世界が身近だった環境で育った。

だから自然にその世界に身を置き、若くして音楽活動を始めるようになった。
にもかかわらずシンガーやバンドマンであっても、芸能人にはならないようにしていたことが、随所からうかがい知ることができる。

かまやつひろしには生涯で二度、スターになるべき絶好の好機が訪れた。
だがそのたびに冷静な判断を下して、そうならないように迂回していたという。
最初は1966年にスパイダースの「夕陽が泣いている」が大ヒットして、テレビや映画で大忙しになったときのことだった。

後年のインタビューで彼は「スパイダースは〈夕陽が泣いている〉で終わったんです。世の中では、それがスパイダースの始まりであり、GSブームのスタートだったけど、俺の中では火が消えた。それまでの音楽的にマニアックだったファンが離れて、代わりに一般大衆がワッと増えたけど、彼らはタイガースが出てくると、そっちに移っていった」と述懐している。ムッシュの不安は現実となってしまったのである。


GSブームがあっという間に下火になってスパイダースの人気が急下降した1969年、かまやつはフォーククルセダーズを解散してまもない北山修と、六本木の俳優座で「フォークソングをぶっとばせ」というコンサートを開催している。
北山はこの時、まだ京都府立医科大の学生だった。
しかし、かまやつには「ミュージシャンらしくない、ある種の律儀さを持った、若いけれど頼れるタイプの人」に見えたという。

そこへ出演したのは岡林信康、彼のバックバンドとしてのはっぴいえんど、それに五つの赤い風船、ジャックスなど、当時はアンダーグラウンドと呼ばれていたが、ムーブメントの最先端にいたシンガーやバンドだった。

もちろん、アングラフォークに興味あったがあったからやったのだが、ぼくとしては、やらざるを得ないという気持ちが強かった。こういうことをやっておかないと取り残されてしまう、置いていかれるという焦りもあったのである。


かまやつは1971年にスパイダースが解散した後、芸能界から少し距離を置いてフォークやロックに接近し、積極的に新しい音楽に挑んでいった。
そうした流れの中で手がけたのが将来性を嘱望されていた19歳の荒井由実で、デビュー・シングル「返事はいらない」をプロデュースしている。

そして1975年、スターになる2度目のチャンスが訪れた。
吉田拓郎の作詞作曲による「我が良き友よ」が大ヒットし、シングル盤が100万枚近いセールスを記録したのである。

ところがこのときもかまやつは冷静で、舞い上がることなく自分の歩むべき道を決めていた。

それは成功してメインストリームで脚光を浴びることではなく、自分の関心のおもむくままに音楽に接しながら、そこで出会った人たちとともに、純粋な気持ちのまま自分の音楽を表現していくことだった。

一曲ヒットを出したら、次もヒット曲を出すことが強要され、ただひたすらヒットのみを考えて活動を続け、もし不発に終わったら、”一発屋”のドサ廻り仕事が待っている‥‥。そんな自分の未来図に恐怖すら覚えたのだろう。結局ムッシュは所属事務所の田辺エージェンシー(「我が良き友よ」制作時に所属)を辞め、再びフリーランスのシンガー・ソングライターに戻り、ヒット競争とは無縁のフィールドでマイペースの音楽活動を続けていくことを選択したのである。


しかし、いつもひょうひょうとして自由人だっらかまやつだったが、しっかりバランスを取っていたエピソードも記されていた。
アルバム『我が名はムッシュ』を制作中に、テレビのバラエティ番組に出演していたかまやつが、その中で逆さ吊りにされているシーンを見たプロデューサーの小西康陽は、どうしてそんな仕事までやるのかを本人に尋ねたという。

ムッシュは「たまにテレビに出てないと忘れられちゃうからね」と笑って答えたという。「B級ミュージシャンに徹する」ためには、こんなクールな計算力としたたかさも必要不可欠だったのである。


いわばA級ミュージシャンとしてではなく、自らB級ミュージシャンに徹することで、かまやつしろしは自由なスタンスで活動することができたのだという。
半世紀以上にわたって第一線で伸び伸びと活動することができた要因に、長いキャリアの中で”直感力”や”計算力”を身につけてきた強みがあったのだ。

かまやつひろしの言葉で締めくくりたい。

地味でも良いから自分のリスペクトする音楽をやって行きたい。生涯B級ミュージシャンでいたいと思ったわけです。



〈参考文献〉サエキけんぞう (著)‎、中村 俊夫 (著) 『エッジィな男 ムッシュかまやつ』(リットーミュージック)。本文中の引用はすべて、同書によるものです。


『エッジィな男 ムッシュかまやつ』(単行本)
サエキけんぞう (著),‎ 中村 俊夫 (著)
リットーミュージック


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