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出会いの連続の中で培われた石田長生の感性

2019.07.16

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石田長生が最初に衝撃を受けた音楽は、動いているビートルズだった。
小学6年生のときに映画『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』を観にいって、「おおきなったらこういうことしよう!」と決めたという。

イギリスから登場したビートルズによって、誰もが思い思いの楽器を手に歌や音楽を自由に作っていいんだというメッセージが、世界中の若者や少年少女たちに拡散していった。
大阪の八尾に住む小学生にも、それはしっかりと届いていたのである。



高校から大学にかけて、石田は関西のジャズ・クラブやディスコ、キャバレー等で本格的にギタリストとして活動を開始した。
そこからジャズの道へ進みかけていたところを、ブルースの道へと導いてくれたのがブルース界のレジェンド、B.B.キングである。
1971年2月から3月にかけて来日した時のライブを眼の前で体験し、強烈なチョーキングや、魂そのものに響いてくるヴォーカルに圧倒された石田は、ブルース・ギタリストとして生きようと道を定めた。

やがて、R&Bにも傾倒していた上田正樹や佐藤博らとバッド・クラブ・バンドを組み、レイ・チャールズやジョー・コッカーのコピーから始めて、大阪や京都のブルース・シーンで一気に頭角を現していく。

その一方では「春一番」コンサートに出るフォーク・シンガーの金森幸介にバックを頼まれたのをきっかけに、難波元町にあるフォークの聖地「喫茶ディラン」に通うようにもなった。
そこから店主だった大塚まさじ、常連の西岡恭蔵や永井ようと知り合い、音楽への志を持った若者たちの輪と繋がっていく。

彼らの代表曲でスタンダードになった「プカプカ」(作詞作曲・西岡恭蔵)について、石田はこの曲に初めて日本語のBLUESを感じたと語っていた。



1975年、石田はテネシー州のメンフィスにたった一人で出かけている。
ギター1本だけを持って、あてもなく安ホテルに閉じ籠もり、憧れだったロイヤル・スタジオに何度も電話した。
それに応えてくれたのがハイ・レコードの創始者で、プロデューサーのウィリー・ミッチェルだった。

言葉ではなく熱情が通じたのだろうか、スタジオへの出入りを許された石田はたくさんのセッションに立ち会って、音楽が生まれる現場を自分の目と耳で覚えて帰国した。

その後の石田はジャンルを横断してミュージシャンやシンガーたちと交流しながら、“石やん“の愛称でギタリストやプロデューサーとして活躍していく。

1970年代からギター・ヒーローになっていたCharと2人で、アコースティック・デュオの「馬呆(BAHO)」を結成したのは1989年のことだ。


それによってギタリストやプロデューサーとして以上に、アーティストとしての名前も一般にまで知られるようになった。

その頃のライブにおけるコール・アンド・レスポンスの模様は、7月24日に発売される石田長生トリビュートアルバム『SONGS OF Ishiyan』の最後に収録された「HAPPINESS」で聴くことができる。

生前から交友があったアーティストが参加したこのアルバムから伝わってくるのは、少年時代に心を奪われた音楽を追求し続け、夢をひとつずつ実現しながら生きた石田の純粋な音楽人生の潔さだ。
音楽によってつながりのあったアーティストやミュージシャンによって、石田長生という音楽家は今もなお生きているのである。

いつの頃からか口にしていた「ええ歌は、残さなあかん!」という言葉が、今日もまたどこかから聴こえてくる。


石田長生トリビュートアルバム『SONGS OF Ishiyan』
SPACE SHOWER MUSIC


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