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アイク・ターナーを偲んで〜ブルースタウンで育った幼少期、B.B.キングとの運命的な出会い、リトル・リチャードに影響を与えたロックンロールピアノ

2019.12.12

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2007年12月12日、ギター奏者、ピアノ奏者、編曲者、プロデューサーとして活躍したアイク・ターナー(享年76)がカリフォルニア州サンディエゴ郊外サンマルコスの自宅で死去した。
死因は公表されなかったが、一説ではコカインの過剰摂取による肺気腫、高血圧性心臓病を患っていたことが要因と言われている。
アイク・ターナーと言えば歌手ティナ・ターナーの元夫であり、1960年代から1970年代にアイク&ティナ・ターナーとして「Proud Mary」や「It’s Gonna Work Out Fine」など数々のヒットを飛ばし、音楽家として、そしてグループの衣装や振り付けまでを担ったプロデューサーとして高い評価を得た人物である。
後にソロ歌手として世界的な成功を掌中に収めたティナ・ターナーの才能を見出し、開花させたのも彼だった。




1931年11月15日、アイク・ターナーはデルタブルースで有名なミシシッピ州クラークスデイルで生まれた。
父親はバプテスト派(イングランド国教会の分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの一教派)の牧師で、母親は裁縫の仕事をしていた。
彼には10歳年上の姉がいて、彼は母親にも姉にも“ソニー(坊や)”と呼ばれて溺愛されて育ったという。
父親は聖職者だったにも関わらず、地元の裏社会の人間との関わりを持っており、彼がまだ幼い頃に殺し屋の手によって命を奪われている。
その時のことをアイクは鮮明に憶えているという。

「ある日、家のドアが蹴破られて白人の男が数人で押しかけて来たんだ。奴らはすがりつくおふくろを突き飛ばして、強引におやじを連れ去っていったんだ。数時間後に家の前に車が付けられて、庭におやじが放り投げられたんだ。おやじの腹には穴があけられていたよ。」


彼の父親はそのまま病院のベッドで3年間も過ごして…帰らぬ人となった。
当時、クラークスデイルではまだ人種差別が当たり前のこととして行われており、黒人は町を横切る線路の東側にしか住めなかったという。
一家の大黒柱をなくした彼の家族は、貧しい生活を強いられることとなる。
幼いアイクは、母親が捨てた端切れを縫い合わせて作った敷物を売って小銭を稼いでいた。
それに加えて“ミスター・ブラウン”と呼ばれていた近所の盲目の男の歩行介助をして小銭を稼ぎ、空いた時間にはブラウン氏の妻からギターを習った。

「当時俺たち黒人の若者の間では、白人のヒルビリー音楽が流行していて、みんなラジオ番組に耳を傾けていたよ。ナッシュヴィルの局から放送される“グランド・オール・オプリ”に夢中だったね。」


彼は子供の頃から黒人居住区にある繁華街に出入りしていた。
そこには安酒場、キャバレー、売春宿、様々な物を売る商店が立ち並び、日常的に店先や道端でブルースが演奏されていたという。

「友達の母親がカフェをやっていて、その店ではハーモニカ奏者のサニー・ボーイ・ウイリアムソンや、ギタリストのロバート・ナイトホークなんかが演奏していたんだ。かつてその町には、あのロバート・ジョンソンも訪れて演奏していたって聞いていた。俺はそんなブルースタウンで育ったんだ。」


アイクの母親は、彼に小学2年生の時からピアノのレッスンを受けさせた。
彼は堅苦しい練習に我慢できず、教本から逃げる事ばかりを考えていたが、ピアノをやめる事はしなかった。
レッスンをさぼる代わりに、夜な夜な街の酒場に潜り込んで、そこで行われるヴギウギピアニストのジョー・ウィリー・パーキンス率いるバンドのジャムセッションなどを夢中で見ていた。
8歳の頃には、地元のラジオ局WROXに出入りするようになり、ディスクジョッキーの休憩中にレコードをかけることを許されるようになり、そのうちちょっとした番組を任されるようになっていたという。
十代になると、アイクは地元のキャバレーでピアノを弾き始める。
彼の音楽への情熱と才能はすぐに認められ、まずは歯科医でもあるサックス奏者ドクター・E・G・メーソンが率いるスウィングバンド“トップハッターズ”に加入する。
近郊都市を巡業し、クラブ、学校、時にはトラックの荷台の上など彼らは場所を選ばず演奏したという。
1948年にバンドが解散した後も、新バンド“キング・オブ・リズム”を結成し精力的に活動の場を広げてゆく。


彼らは決して恵まれた環境で演奏活動ができるバンドではなかった。
ギターの弦が切れると、アイクは弦を結びあわせて再び使っていたという。
ピアノの弦が切れた時は、車のタイヤを溶かしてトレッドからスチールワイヤーを抜き取って代用品にした。
そんな苦労を重ねながら地道に活動していたキング・オブ・リズムは、しだいに地元で人気を集めるようになる。
そして1951年の年明け、ミシシッピ州チェンバーズのブルースクラブで彼はある人物と運命的な出会いを果たす。

「B.B.キングのバンドと共演するチャンスに恵まれたんだ。キングはセッションの合間に俺たちに演奏させてくれた。そして演奏が終わると声をかけてくれたんだ。“お前たちレコーディングしろよ!”ってね。」


話はトントン拍子で決まり、当時のB.B.キングのプロデューサー、サム・フィリップス(サンスタジオ)が録音を担当してくれることとなった。

「俺たちはクラークスデイルから車に乗ってスタジオのあるメンフィスへと向かったんだ。
3月の雨の降る水曜日だった。ひでぇ土砂降だったよ。タイヤはパンクするし、ベースアンプは車の屋根から落っこちるし、まったくのトラブル続きだった。スタジオに着いてすぐに俺は曲を書いたんだ。それが“Rocket 88”さ!」


サム・フィリップスは当時のことを思い起こして、こんな風に語っている。

「アイクはシンガーとしてはいまいちだった。歌に抑揚がないし、フレージングがなっちゃいない。でも彼のピアノは素晴らしかった。私が知っているミュージシャンの中でも最高水準だったよ。彼は“俺は歌わなくていい!ジャッキー・ブレストンに歌ってもらうから大丈夫だ!”と言った。それでRocket 88を録音したんだ。あれはまだジェリー・リー・ルイスが出てくる前だった。彼はご機嫌なピアノを弾いたよ。正直まだ未完成の曲だったけど、あの時の空気を詰め込んだ素晴らしいレコードだと思っているよ。」



同年の6月、ジャッキー・ブレンストン&ヒズ・デルタ・キャッツの名義でチェスレーベルからリリースされた「Rocket 88」は、R&Bチャート1位の大ヒットを記録した。
後にサム・フィリップスは、このレコードを最高の言葉で称賛した。

「Rocket 88は最初のロックンロールレコードだ!」


このシングル盤は、その後、ジョージア出身の若きロックンロールシンガー、リトル・リチャードに多大な影響を与えることとなる。
リトル・リチャードは、その数年後に「Rocket 88」を真似た曲「Good golly miss Molly」を発表している。

「ピアノフレーズはアイクの演奏スタイルを取り入れたんだ。」



その後アイクはレコード会社のスカウトマンとしても活躍することなる。
自らの一ファンであったアンナ・メイ・ブロック (ティナ・ターナー) の才能を見出し、アイク&ティナ・ターナー・レヴュー名義でさらなる活躍の場を広げてゆく。
同バンドではギターを担当し、トレモロアームを効かせた鋭いトーンのプレイでギタリストとしても高い評価を得ることとなる。


<引用元・参考文献『ティナ・ターナー、愛は傷だらけ』ティナ・ターナー(著)大河原正(翻訳)/講談社>

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