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アルバート・ハモンドの「カリフォルニアの青い空」が日本で発売された日

2019.12.21

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1972年(昭和47年)12月21日、アルバート・ハモンドの「カリフォルニアの青い空」(CBS・ソニー EPIC)が日本で発売された。
同年の国内ヒットソングといえば…

1位「女のみち」/宮史郎とぴんからトリオ
2位「瀬戸の花嫁」/小柳ルミ子
3位「さよならをするために」/ビリーバンバン

札幌冬季オリンピック、ミュンヘンオリンピックが開催され、自動車の初心者マークが登場、東北自動車道が開通、そして連合赤軍によるあさま山荘事件がおこった年でもある。


「これは1969年のある雨の日にロンドンで書いた曲だよ。まだLAへ飛び立つ前のことで、僕がスペインで過ごした苦しい時期を歌った伝記的な曲さ。当時、友達のアーティストの前でこの曲を演奏したら、みんな口を揃えて酷評したんだ。だけどLAで出会ったコロムビアレコードの社長クライヴ・デイヴィスがこの曲は大ヒットするって言ってくれたんだ。タイトルを“It Never Rains In Southern California”と名付けてくれたのも彼だった。」



この「It Never Rains In Southern California(カリフォルニアの青い空)」は、イギリス出身のシンガーソングライターアルバート・ハモンド(当時28歳)が1972年に発表した楽曲である。
彼にとってデビュー作となった同名のアルバム『It Never Rains in Southern California』からの2ndシングルカット曲で、アメリカのBillboard誌週間ランキングで5位を獲得した。
イギリスではラジオでの放送回数が多い“ターンテーブルヒット”となったが、売り上げは伸びずにチャート入りすることはなかったという。
彼は両親の出身地ジブラルタル(イベリア半島の南東端に突き出した小半島を占めるイギリスの海外領土)で育ち、十代半ばにして将来歌手になって成功することを決心する。

「ジブラルタルで幼少期を過ごしたことが僕のキャリアに大きく影響を与えている。当時、スペイン語やアラビア語、英語の曲など、ありとあらゆる音楽を聴いて育ったんだ。音楽作りが僕のやりたいことなんだって気づいて“これが僕の夢なんだ!だからどんなに長くかかっても、どんなに上手くいかなくても、目標を成し遂げるまで絶対にあきらめないぞ!”って決心したのを憶えているよ。」


その後、モロッコやスペイン、そしてイギリスへと活動の拠点を移しながら下積み生活を送り、その後ロサンゼルスに移住して(やっとの思いで)日の目を見ることとなる。
同曲はイギリス時代からの作曲パートナーであるマイク・ヘイゼルウッドとの共作で、二人にとっては念願のヒット曲となった。

「1970年、アメリカに拠点を移したんだ。当時イギリスでは自分の曲がトップ20にチャートインするようになっていたけど、もっと大きなチャレンジが必要だと思ってね。それで、チャンスを求めてLAに引っ越したんだ。カリフォルニアは僕が育った地中海と気候がよく似ているし、寒くて憂鬱なロンドンの天気とは全然違ったからね。先の不安や困難なんて全く考えもせずに、LA行きの747便に乗り込んだのさ。」




西部行き747便に乗ったんだ
何をしたらいいのか何も考えないままに
チャンスがあるっていう噂話は全部TVや映画が伝えている話さ
失業しちゃってどうしたらいいかわからないんだ
プライドもなくしお金もない…




当時、成功を夢見てアメリカに渡ったばかりだった彼は、すぐにチャンスに恵まれることはなく…仕事もお金も無いどん底の生活を送っていたという。
そんなある日、彼は偶然故郷の知り合いとロサンゼルスの街で再会する。

「地元に帰ったらこう伝えてくれないか?仕事の話はあるんだけど、今は選んでいるってね。頼むからこんな姿を見かけたって誰にも言わないでくれ。」


曲の歌詞には、ハリウッドでの成功を目指してカリフォルニア州へやってきた俳優がチャンスを掴めない日々を過ごす姿(気持ち)が歌われていた。
スペインでの下積み時代を歌ったのか?本当はカリフォルニアでの苦しい経験を歌ったものなのか?その真相は謎のままである。


彼はあるインタビューで曲を書いたイギリス時代を振り返ってこんな風に語っている。

「1960年代のあの時代は、ジブラルタルみたいな小さな半島からやってきた僕にとって衝撃的だった。大都市ロンドンの生活に身を投じることはワクワクして興深いのと同時に怖くもあったよ。でも当時のミュージシャンたちはフレンドリーで良い人達だったし、まるで地元にいるみたいに一緒にいて心が安らぐ存在だったんだ。レッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズは当時僕が組んでいたバンドの作品でベースを弾いてくれただけでなくアレンジも担当してくれた。ジミー・ペイジやエルトン・ジョンも作品に参加してくれたんだ。彼らのようなミュージシャンと共に活動することは、ジブラルタルからやってきた10代の僕にとっては貴重な体験だったよ。」



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