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ジェームス・ブラウン少年時代〜食べること着るものに苦労した極貧生活、ハーモニカやオルガンに触れた幼い頃の音楽体験

2019.12.25

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2006年12月25日午前1時45分、ジェームス・ブラウン(享年73)がジョージア州アトランタのエモリー・クローフォード・ロング病院で死去した。
当初発表された死因は、肺炎に合併したうっ血性心不全というものだった。
その後「彼は誰かの手によって殺害された」など様々な死因説が報道されたが…その真相は未だ明らかになっていない。
12月30日にオーガスタで行われた葬儀には、マイケル・ジャクソン、M.C.ハマーなどの友人を含む約8,500人のファンや関係者が集まり最後のお別れをした。


20世紀に登場した音楽家・パフォーマーの中で、彼は最も大きな功績を残した一人として知られている。
彼が創り上げた“ファンク”という新しいスタイル(音楽・歌唱法・ダンス)は、マイケル・ジャクソンを始めミック・ジャガーやプリンスなど多くのアーティスト達に影響を与え、後のヒップホップ文化へと受け継がれることとなる。
極貧の生活から自身の才能だけを頼りに頂点を目指し、ついには20世紀最高峰のエンターテイナーとなった彼の原点でもある、その生い立ち・少年時代をご紹介します。


1933年5月3日、彼はジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして、サウスカロライナ州バーンウェルで生まれた。(生誕年が1928年/生誕地がテネシー州プラスキという他説もある)
彼は母親のお腹から出てきた時、産声をあげなかったという。

「松林の中に建っていた一部屋だけの掘っ立て小屋で生まれたんだ。母親と叔母達は泣かない俺を取り上げて死産の赤ん坊だと。お産の手伝いに慣れていた叔母が尻を叩いたり、口に息を吹き込んだり、背中をさすったりしているうちに、俺は小さな声で泣き出したらしい。」


アフリカ系アメリカ人として生まれた彼だったが、その血筋は複雑なものだった。
父親の祖父はチェロキー族のネイティブアメリカンだったという。
母親の家系にはアジア人の血が流れていた。

「俺の体には様々な血が流れているから、特定の人種とかではなく“人類”という人種、つまり世の中の人すべてと繋がっているように感じていた。俺はアフリカ人に対する気持ちと同じく、東洋人にも近しい気持ちを寄せている。」


父親はテルペンチン(松脂から採れる精油)を採取する仕事をしていたが、その収入は少なく一家は極貧の生活をしていたという。
彼が4歳になった時、不仲だった両親が離婚をすることとなる。
ある日、家を出て行こうとする母親の背中に向かって父親がこう叫んだ。

「子供も連れて行け!」

「あんたが面倒みてよ!あたし、この子のために仕事する気はないんだから!」


その後12年間、彼は母親に会うことはなかった。
父親は仕事の都合で彼を連れて同じような掘っ立て小屋での生活をあちこちで続けた。
窓もない部屋には電気も水道も通ってなく、寒い日は薪を割って火を焼(く)べて暖をとっていた。
着る服もなく、小麦粉用の麻袋を縫い合わせたものを身にまとっていたという。

「食べ物はササゲ豆にアオイ豆、松林から採ってくるゴボウ、豚肉の背肉、糖蜜、コーンブレッド。1日に2品くらいを口にできればいい方で、これより品数が増えることはなかった。」


父親は仕事で出突っ張りだったため、彼は2年間ほとんど一人きりの時間を過ごした。
昼は林の中で一人遊びをして、夜は誰もいない小屋の中で過ごし、誰とも話さない日などざらだったという。

「あの環境が俺の心のあり方を形成したんだ。どんなことが身にふりかかろうと、自分自身を頼るしかないってね。」


そんな貧しく寂しい暮らしの中、彼には忘れられない思い出があるという。
それは彼にとって初めての音楽体験だった。

「ある日、親父が5歳になった俺に10セントのハーモニカをくれたんだ。俺は簡単な吹き方を習って“Oh! Susanna”や“Lost John”なんかを吹いて歌も歌った。親父が歌っていたのはテルペンチン採集場で聴きかじっていたブルースだった。ブラインド・ボーイ・フラーの“I’m A Rattlesnakin’ Daddy”なんかをよく歌っていたよ。だけど俺はブルースを好きになれなかったんだ。こう言うと驚く人もいると思うが、俺はブルースが好きじゃないし、これまで好きになった例(ためし)がない。」





「親父は俺を育てるために苦労した。学歴がなかったから必死で働いても収入が少ない。だから最終的には俺を叔母に預けて、もっといい仕事を探すことになったんだ。親父は俺を捨てたわけじゃなかったが、それ以後、俺と親父が一緒に暮らすことはなかった。」


6歳になった彼は隣のジョージア州オーガスタで売春宿を営む祖母と共に暮らすようになる。
寝る場所、食べるものは最低限与えられたものの、彼は自分の身の回りのことは自分でやらなければならなかった。
父親は(一緒に暮らすことはなかったが)しょっちゅう叔母の売春宿に顔を出していたという。
建設現場、市場での野菜配達、家具屋など、仕事を掛け持ちしながら必死で働いていた。
7歳になった彼は、オルガンを弾くようになる。

「ある日、親父が家具屋から足の一本折れたオルガンをもらってきたんだ。折れた足をチーズの箱で支えて売春宿のポーチに置いたんだ。俺は誰から教わることもなく、どこかで聴き覚えていた“Coon Shine Baby”を1日で弾けるようになった。オルガンで音楽を奏でることは、俺をとても幸せな気分にさせてくれた。」



9歳になった彼は、学校に通いながら叔母の手伝いで売春宿の客引きをしていたという。

「へい、旦那。俺は毎日媚びへつらって働いていた。ボロ切れのようなオーバーオールを着て学校に行っていたため“服が不適切だ”という理由で追い返されたこともある。あの時のみじめな気持ちは死んでも忘れない。」


第二次世界大戦にアメリカが参戦するようになると、軍人たちで賑わっていたオーガスタの街は不景気になってしまい、叔母の売春宿からも客足が引いてしまう。
そんな中、10代になった彼は音楽への興味を深めていき、常連客にギターを習ったり、知り合いにドラムを教えてもらったりして様々な楽器に触れることとなる。

「俺はラジオやレコード、街中のいたるところで新しいサウンドを聴いたよ。ルイ・アームストロング、ビング・クロスビー、フランク・シナトラ、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、ルイ・ジョーダンなどなど、ジャズであろうがゴスペルであろうが、黒人であろうが白人であろうが、スタイルを問わず弾けるものはなんでも弾こうとしたし、色んな歌手の真似をして歌ったよ。」


14歳の時にラジオ局の前で靴磨きをしていたことから音楽の世界に飛び込み、土曜日にはライブハウスで歌い、日曜日には黒人教会でゴスペルを歌っていたという。
とはいえ、その頃の彼はまだミュージシャンになろうとは考えていなかった。
当時オーガスタの街に住んでいた多くの黒人少年達の夢は、プロ野球の選手かプロボクサーになることだった。
貧しいながらも音楽や野球、そしてボクシングに熱中していた彼は、大きくなるにつれて食べるもの着るもの欲しさに万引きや盗みを働くようになる。

「いつから盗みをするようになったのかは忘れたが、どうして盗みを始めるようになったのかは憶えているよ。学校に着ていくマシな服を手に入れるためだった。」


15歳になった彼は不良仲間達と他人の車の中からコートなどを盗み出そうとしているところを警察官に見つかり現行犯で逮捕される。
初犯ではなかった彼に与えられたのは、8年から16年という重い刑罰だった…

「俺は間抜けだったから監獄に送られることになったんだ。」



<引用元・参考文献『俺がJBだ!―ジェームズ・ブラウン自叙伝』ジェームズ・ブラウン(著)
ブルース・タッカー(著)山形浩生(翻訳)クイッグリー裕子(翻訳)渡辺佐智江(翻訳)/文藝春秋>


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