「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the DAY

”はっぴいえんど解散”と銘打って行われたファミリーによる旅立ちコンサート

2020.09.21

Pocket
LINEで送る

写真:井出情児

「はっぴいえんど」と「風街ろまん」、それに「HAPPY END」という3枚のアルバムを発表したはっぴいえんどは、すでに1972年いっぱいで実質的には解散していた。
にもかかわらず東京・文京公会堂で、解散コンサートと銘打った『CITY―LAST TIME AROUND(ラスト・タイム・アラウンド)』が開かれたのは、1973年9月21日のことだった。

9a0ba1909fa0da7c432cf110.Lライブはっぴいえんど

わざわざ一夜だけのために大滝詠一、鈴木茂、細野晴臣、松本隆の4人が再結成したのは、所属していた事務所の風都市が”はっぴいえんどファミリー”のお披露目を意図していたからだ。

出演したのは南佳孝、吉田美奈子、西岡恭蔵、ココナツ・パンク、大瀧詠一withココナツ・パンク+シュガー・ベイブ+シンガーズ・スリー、松本隆とムーン・ライダース、キャラメル・ママ、はっぴいえんどwith鈴木慶一というメンバーだった。

はっぴいえんどの四人が関わりを持つ新人シンガーとバンドが次から次に出演して、新曲ばかりを次々に披露する”解散コンサート”など、当時も今も前代未聞のことであろう。

今になって見れば多彩な顔ぶれが揃った伝説的なイベントに映るのだろうが、その日に文字通りの解散コンサートを期待していたファンにとっては、出演者がめまぐるしく変わっていって、まだ馴染みのない新曲が次々に展開するライブとなった。

コンサートの幕開けを飾ったのは松本隆が作詞だけでなく、初めてプロデューサーとして手がけていた南佳孝である。

754992摩天楼のヒロイン いい写り

ぼくのデビューは、はっぴいえんどの解散コンサートだったんですよ。1973年9月21日、文京公会堂から。松本隆プロデュースのデビュー・アルバム『摩天楼のヒロイン』の発売もその日だったしね・・・。


続いては細野晴臣のプロデュースでキャラメル・ママが演奏したファースト・アルバム『扉の冬』を、やはりこの日にリリースしたばかりの吉田美奈子が、3曲をストリングスをバックにして歌った。

imgd9d87ab5zik6↓扉の冬

次に出て来たのは意外なことに関西をベースに活動していた西岡恭蔵で、ジャズシンガーの安田南に捧げた「プカプカ」など4曲を歌った。
これは74年に発表されることになるセカンド・アルバム『街行き村行き』に、細野晴臣が参加してプロデュースしていた縁があったからだ。

同じく関西出身のバンドで、大瀧詠一のプロデュースによってデビューする予定になっていたココナツ・バンク(ギターが伊藤銀次)も、4曲を披露していた。
そこには同じく大瀧詠一のプロデュースによってデビューの準備が進んでいたシュガー・ベイブから、山下達郎と大貫妙子ががコーラスで参加し、最後の1曲にはゲスト・ヴォーカルで布谷文夫までが加わった。

ここまでが第一部で、第二部になると大滝詠一がココナツ・バンクをバックに従えて登場、コーラスがシンガーズ・スリーにシュガー・ベイブという面々で、その年の夏に評判を呼んだコマーシャル・ソングの「サイダー’73」が始まった。

ようやく誰もが知っている曲が流れたので、客席はそこから一気にヒートアップした。


CMソングながらもその斬新さで大いに注目された「サイダー’73」から、曲は「ウララカ」へと続いて、そこから「空とぶくじら」につながり、再び「サイダー’73」に戻ってくるというメドレーは、何かが変わるという予感を伝えるには十分だった。
この時の「空とぶ・ウララカ・サイダー」は、当日のライブ盤としても残されているが、会場でもインパクトは大きかった。

後にナイアガラレーベルやナイアガラトライアングルという、大瀧詠一のライフワークに発展していく面々でのお披露目ライブは、こうしてひとまず大成功に終わった。

次に松本隆のグループとして活動し始めたばかりのムーンライダーズが出たのだが、はちみつぱいの最初で最後のアルバムが出る前だったので、どうしてそこに鈴木慶一や鈴木博文がいるのかが、いまひとつわかりにくいといった客席の反応だった。

その後に細野晴臣と鈴木茂が組んだ新バンド、キャラメル・ママが4曲を披露したところまでが第二部で、そこからは真打ち登場を待つことになった。

やがてはっぴいえんどの4人が揃い、鈴木慶一がピアノで参加して最後のライブ、第三部が始まったのである。
この夜の演奏をもってミュージシャンを引退した松本隆が、こんな感想を残している。

はっぴいえんど最後のステージは、とっても気持ちよく完全燃焼できた。
解散はぼくが決めたことじゃなかったけど、四つどもえの相対的な価値観にしばられることから逃れたいという気持ちはぼくにもあった。
ドラムはすごく好きだったけど、細野さん以外のベースでドラムを続ける気もしなかったから、これで心置きなく作詞家になれると思った。
そして最後にステージからスティックを放り投げたんだ。


メンバー4人がそれぞれに能力を正当に評価を受けるのが、この夜以降のことになったという意味でもエポックメイキングなライブであった。

”はっぴいえんどがいた時代”はこうして幕を下ろしたが、出演者たちのその後の活躍ぶりを見れば、はっぴいえんどが日本の音楽界、ロック界にもたらしたほんとうの“影響”は、実はこの夜から始まっていたとも言えるのである。

ちなみに9月21日は岩手県の生んだ偉大なる文学者で詩人の宮沢賢治の没した日で、それを知った時に大瀧詠一は少し鳥肌が立ったという。



はっぴいえんど『1973/9/21 ライブ・はっぴいえんど』
キングレコード

(注)本コラムは2014年9月21日に公開されました。

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the DAY]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ