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日本の戦後ジャズブームが終息したところにロックンロールが爆発した「日劇ウェスタンカーニバル」

2019.02.08

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1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争において、日本は朝鮮半島に出兵する国連軍(アメリカ軍)の補給物資を全面的にまかない、破損した戦車や戦闘機の修理から戦死した将兵の遺体処理までを請け負った。
日本にある基地と周辺の市町村全体が、米軍を後方支援するという役割を果たしていたのだ。

そこからいわゆる朝鮮特需が起こって、どん底だった日本経済を刺激して好景気に転じたことから、戦後復興がもたらされた。
敗戦の焼け跡から立ち上がった人々にも、娯楽を求める余裕が出て来たのはちょうどその頃である。
なかでも若者たちを熱狂させたのは、アメリカからやって来た舶来の音楽=ジャズだった。

火付け役となったのは進駐軍放送のラジオで、WVTR(後のFEN)からは連日ジャズが流れてきた。
また開局ラッシュが続いた民放ラジオでも、日本のジャズメンが出演する番組は人気があった。

なかでも有名だった寿屋(現・サントリー)提供の「トリスジャズゲーム」は、1954年に放送が始まって7年半も続いた公開番組だ。
番組の看板アーティストは、人気コンボのビッグ・フォーである。
ジョージ川口(ドラムス)、小野満(ベース⇒後に上田剛)、中村八大(ピアノ)、松本英彦(テナー・サックス)と、全員がジャズ雑誌の人気投票が1位だった4人が結成した当時のスーパー・グループだ。


超人的なテクニック、スピード感が満点の演奏、クールでいながら派手なステージ・アクションと、ビッグ・フォーは古いスイング・ジャズとは対極に位置する、新しいスタイルのバンドだった。

「トリスジャズゲーム」では客席からリクエストをもらって、その場でアレンジして演奏するコーナーが人気だった。
ジャズやポップスはもちろん、歌謡曲、民謡、童謡、校歌、どんな曲でもビッグ・フォーは即興で演奏してみせた。

日劇ビッグフォー


ところが朝鮮戦争が休戦協定によって一時的に終結したことで、20数万人にまでふくれあがっていた在日米軍が徐々に帰国し始めた。
1953年からの5年間で兵士が数万人にまで減少した影響で、全国各地に点在していた米軍キャンプが急激に縮小されていく。

最も金銭面での待遇がいい職場がなくなってしまったことで、日本の戦後ジャズブームも次第に終息に向かった。
そして在日米軍の地上戦闘部隊の撤退が完了した1958年2月8日、有楽町の日劇では「第一回日劇ウェスタン・カーニバル」が開催されたのである。

その初日の幕が開いたとき、世界中に新しい変革をもたらした若者の音楽、ロックンロールが日本でも爆発した。



そもそもロックンロールの火付け役となった映画『暴力教室』の主題歌、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、1955年の夏に映画が公開された後でジャズ・シンガーの江利チエミによってカヴァーされていた。

その翌年にエルヴィス・プレスリーがブレイクすると、カントリー&ウェスタンの小坂一也とワゴン・マスターズが、さっそく「ハートブレイク・ホテル」を日本語でヒットさせた。
ただしここではまだロックンロールの精神が、サウンド面にまでは反映されていなかった。

そうやって少しづつ、都会の若者たちに広まっていたロックンロールに火が点いたのは、”ロカビリー三人男”すなわち、平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎が「第1回日劇ウェスタンカーニバル」に登場して人気ものになった2月8日のことだ。

彼らは必ずしもロックンロール・ナンバーばかり歌っていたわけではない。
しかし若者による大人社会への異議申立ての意識や、既成概念を壊そうという精神にはロックンロールに通じるものがあった。

エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」とポール・アンカの「ダイアナ」を筆頭に、ジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ルーラ」などのカヴァー曲に人気が集まった。

特に人気があった「ダイアナ」のレコードは各社の競作になったが、本命と目されていた平尾昌晃のヴァージョンではなく、新しく出来た東芝音楽工業(東芝レコード)の山下敬二郎のヴァージョンがヒットした。
それをアレンジして歌唱指導を行っていたのは、ビッグ・フォーのピアニストだった中村八大である。

日劇ウェスタン・カーニバルはおよそ3ヵ月おきに開催されて、水原弘、井上ひろし、かまやつひろし、守屋浩、坂本九、ジェリー藤尾と、次々に新しいスターが誕生してきた。

その後の若者たちが夢中になった音楽、アメリカンポップスのカヴァー・ブーム、エレキギターのブーム、GSブーム、フォーク・ブームなど、日本の新しい音楽ムーブメントはここが原点だったといえる。

ミッキー・カーチスは自身のヒット曲を持たなかったが、歌手としての活動以外にも俳優、司会、落語と活動の場を広げて、1970年代にはプロデューサーとして活躍し、ガロや小坂忠、キャロルを世に出していく。

ブームの最中から自分でも曲を書き始めた平尾昌晃は、ポップス系の歌謡曲で才能を発揮し、布施明「霧の摩周湖」、五木ひろし「よこはまたそがれ」、小柳ルミ子「私の城下町」と大ヒットを出して大成する。

そしてビッグ・フォーのピアニストだった中村八大は、ロカビリー映画で挿入歌に使われた「黒い花びら」(歌:水原弘)で第1回レコード大賞を受賞したことから、作・編曲家として脚光を浴びて「黄昏のビギン」や「上を向いて歩こう」を誕生させていった。




(注)本コラムは2015年2月8日に公開したものを改題、加筆しました。

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