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インディアン戦士、アイラ・ヘイズが 硫黄島に星条旗を掲げた日

2015.02.23

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太平洋戦史上、最も熾烈な戦闘は、東京からおよそ1200キロメートル距離に位置する小笠原の硫黄島で戦われた。
その島最高の擂鉢山の山頂に、一本の星条旗がひるがえったのは、今から70年前の今日。
1945年2月23日早朝のことだった。

陥落までの戦闘がどれほど凄まじいものだったかは、米軍側に6821名、日本側に2万129名という戦死者の数が物語っている。
陥落を記録する星条旗をうちたてたのは、あたりに居合わせた6人の兵士たちだったが、その姿はAP通信のカメラマンによって、報道カメラにおさめられた。
硫黄島を失えば、本土決戦を残すばかり。決死の抵抗は激しく、長引いた戦争や甚大な犠牲について、アメリカ本土では非難の声があがっていた。
それをかわすためにも、勝利だけでなく、「英雄伝説」が求められていたのだ。

~酔いどれのアイラ・ヘイズ、呼びかけてももう彼は答えはしない~

アイラ・ヘイズは、アリゾナ州ヒーラ川の保留地に生まれたインディアン。
貧しさから志願して大戦末期の戦場へ。そのとき彼は、19歳だった。

運命を変えたのは、勝利の星条旗を掲げた兵士6名のひとりとなったこと。
たまたま居合わせたことが、ひとりのインディアン戦士の運命を変えた。
クリント・イーストウッド監督の映画『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』でも知られるその武勲によって、「最も勇敢なインディアンの戦士」として、彼は国民的な英雄となる。

もてはやされたのもつかのま、波が引くのも早かった。
見捨てられたアイラは酒におぼれ、故郷の川のほとりで、ゆきだおれ同然の姿で発見される。享年33歳だった。

ある朝、彼は酔ったまま死んでいた
彼が守り抜いた国で独りぼっち
2インチ(約5cm)くらいの深さしかない寂れたどぶ川
そこがアイラ・ヘイズの墓場だった


この実話をもとに「アイラ・ヘイズのバラッド」という歌を書いたのは、ピーター・ラファージ。
アイラと同じく、インディアンの血を引くカウボーイでロデオの名手でもあった。
この曲に深く心うたれたジョニー・キャッシュは、グリニッチ・ヴィレッジまで足を運んでピーターと会い、持ち歌として歌いはじめる。

JohnnyBitterTears

~戦争に行ったアイラ・ヘイズ、そう呼んでも彼はもう答えはしない~

羽飾りで盛装した大勢のインディアンたちが集う居留地で、キャッシュは「アイラ・ヘイズのバラッド」を歌い、インディアンたちもともに歌って涙を流した。
しかし、この歌はいっこうに売れる気配はなかった。
レコード会社もまったく力を入れなかったし、放送局でも敬遠され、オンエアーの機会も少なかった。
“自由の国”アメリカにも暗黙のタブーはある。
インディアンを歌にすること、まして国に利用され棄てられた存在として歌うことには覚悟が必要だった。

それを承知で、キャッシュが、一矢むくいたことがある。
1972年7月、リチャード・ニクソンに、ホワイト・ハウスに招かれたときのことだ。
大統領から直々にリクエストされた、ポピュラーな2曲「Okie from Muskogee」と「Welfaire Cadillac」を、よく知らないからとかわし、彼は「アイラ・ヘイズのバラッド」を歌った。
誰でも知っている2曲を歌えないはずもない。
これはキャッシュのささやかな挑戦だった。
面目をつぶされた大統領は土気色の頬をこわばらせるばかりだったという。

「ジョニー・キャッシュに向かって、曲を指定するなんて、馬鹿げたことだった」
ニクソンはのちにこう語っている。

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