1964年6月10日、ローリング・ストーンズは少年時代から憧れていた聖地に着いた。
キース・リチャーズが自伝で語っている。
サウス・ミシガン・アベニュー2120番地は俺たちにとって聖地だった。
シカゴのチェス・レコードの本社の住所だ。
アンドルー・オールダムがタイムリミット寸前で話をつけて、みんなであそこへ行った。
初めてのUSツアー。
その前半はどの会場でも客の入りがぱっとせず惨敗に近かった。
だがあそこの完璧なサウンドスタジオで、自分たちが聴いてきた数多くの曲、バディ・ガイやチャック・ベリーの曲が作られた憧れの空間で、俺たちは惨敗ムードを忘れ、2日で14曲録音した。
この日と翌11日のセッションは、ストーンズのマネージメントを行なっていたアンドリュー・ルーグ・オールダムが、苦戦続きのUSツアー中に思いついたアイデアだった。
キースも言っていたようにストーンズの最初のツアーは惨敗続きで最低だった。
まだアメリカではヒット曲がなかったので、コンサートでも反応が悪く、取材やインタビューでもボロクソだった。
例えばテキサスでのコンサートでの屋外のコンサートは、観客がカウボーイと子供たちばかりで、当然だがいい反応などなかった。
ベースのビル・ワイマンが、こんなふうに回想している。
おれたちは、芸をする猿の後に演奏しなければならなかった。
いったい全体おれたちはここで何をしているんだ!
客はおれたちを真面目に鑑賞すべきか、冗談とみなすべきかもわからなかった!
カウボーイがおれたちをバカにしたので、ミックが馬に乗って行っちまえといった。
会場を後にしたとき、おれたちはふさぎ込んでいた。
ストーンズのメンバーもスタッフも、だれもがすっかり落ち込んでいた。
彼らを落ち込んだままロンドンに帰すことはできない、そう思ったアンドリューはチェス・レコードに行ってレコーディングすることを決める。
アンドリューが用意したスタジオ・セッションはストーンズに生命の水を与えた。
ビルは「おれたちにとって歴史的なものだった」と書いている。
録音したい曲もすでにだいたい決めていたし、雰囲気がすばらしいので録音ははかどり、4時間で4曲録音し終えた。
ヴァレンティノスの「It’s All Over Now」、マディ・ウォーターズの「I Can’t Be Satisfied」、それに「Stewed And Keefed」という即興で作った曲と、「Time Is On My Side」だった。
セッションのあいだに、ブルース・ギタリストのバディ・ガイとソングライターのウィリー・ディクソンが訪ねてきて、興奮した。
憧れの空間で4トラックのマルチ・レコーディングをすることに、ストーンズのメンバーは喜びと興奮がかくせなかった。
2日目には二人のヒーローたち、マディ・ウォーターズとチャック・ベリーが訪ねてきて対面した。
その日に録音された即興の「2120 South Michigan Avenue」は、ストーンズには珍しいインストゥルメンタルだが、憧れのチェス・レコードでセッションしていることの喜びが伝わってくる。
チェス・レコードでのセッションからは、イギリスで初めてヒットチャート1位に輝いたボビー・ウーマックのカヴァー、「イッツ・オール・オーバー・ナウ」が誕生した。
R&Bのカヴァー曲を中心にしていた初期のストーンズの最高傑作といわれる「Time Is On My Side」も、全米チャートで初めてベスト10入りした。
またキースがフロリダで閃いた「サティスファクション」も録音され、それはロスアンゼルスで仕上げられて完成することになる。
信じられない程の成果が上がった2日間はストーンズにとって、ビルの言った通り、まさに歴史的なレコーディング・セッションとなったのだ。
キースの言葉で締めくくりたい。
アメリカじゃぁ、ボビー・ウーマックみたいなやつらから、よくこんな風に言われた。
「初めて聞いたときは、お前ら黒人だと思ったぜ。このすげえやつら、どこのどいつだって」。
俺自身はどうしてかわからない。
あんな町で育ったミックと俺が、なんでああいうサウンドつく出せるのか。
まぁ、朝から晩までロンドンのじめじめしたアパートに閉じこもってブルースをガンガン聴いて、すげえ勢いで吸収してたら、シカゴで吸収しているのと大差ないんだろうが。
キース・リチャーズとビル・ワイマンの言葉はそれぞれ、キース・リチャーズ著「キース・リチャーズ自伝 ライフ」と、ビル・ワイマン著 「ストーン・アローン/ローリング・ストーンズの真実」からの引用です。