TAP the DAY

アッティカへの怒りからステージで「イマジン」を歌ったジョン・レノン

2015.12.17

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ジョン・レノンがオノ・ヨーコとともにニューヨークに移住したのは1971年の9月のことだ。
近隣には数多くのアーティストや活動家が住んでいて、新天地でジョンは彼らとの交流を楽しんだ。

「ニューヨークには素晴らしいアーティストが二、三十人はいて、僕のやってることをみんな理解してくれるし、みんな僕と同じような感性を持ってる。
こんなところ(筆者注:イギリス)にいた後だと、あっちはまさに天国だね。」


ビートルズが1966年にコンサートをやめてからほとんど人前で歌うこともなかったジョンは、ニューヨークに来ると少しずつではあるが再びステージにも上がるようになっていく。

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その頃にアメリカではある事件が、世間の注目を集めていた。
カナダとの国境付近にあるニューヨーク州アッティカ刑務所で、9月9日に暴動が起きたのだ。

服役していた囚人の半数にあたる1000人が参加して看守ら33名を人質に取ると、刑務所内での真っ当な扱いを要求した。

彼らの待遇は劣悪きわまりなく、非人道的なものだった。
1200人しか収容できないところへ倍近い人数が押し込まれ、不衛生な室内でまともな食事は与えれず、シャワーは週に1回、トイレットペーパーは月に1ロールに制限されていた。

それに加えて黒人は、理不尽な暴力や拷問も受けていた。
公民権運動によって黒人に対する社会の意識は少しずつ変化していたが、世間の目が届かない塀の中では、依然として人種差別がまかり通っていたのだ。

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不満を爆発させた囚人たちが籠城してから4日が経過した9月13日、ニューヨーク州知事のロックフェラーは現場から交渉にあたってほしいと要請される。
だが囚人の要求を受け入れたら他の刑務所でも暴動が起きるかもしれないとして、これを拒否したロックフェラーは武力行使を指示する。
午前9時46分、州兵たちは突入を開始。
2分間に渡る一斉射撃を行ったことで28人の囚人と9人の人質が死亡、暴動は凄惨な結末を迎えるたのだった。

この暴動によって囚人側の要求はいくつか通ったが、環境が改善したとはいえなかった。
今度は看守による報復がはじまったのだ。

刑務所内での人種差別と非人道的な扱い、多くの命が奪われたことに怒りと悲しみを抱いたジョンは、その名も「アッティカ・ステート」という曲を書き上げる。

囚人たちに人権を 公平な裁きを
あらゆる囚人たちに人権を


アポロ・シアターでは12月17日、アッティカ刑務所暴動で亡くなった被害者の家族を招いて、チャリティー・コンサートが催された。
アレサ・フランクリンも出演していたそのコンサートの途中で、司会がサプライズ・ゲストをステージに招いた。

「ジョン・レノン・アンド・ザ・プラスチック・オノ・バンド!」

観客はジョンとヨーコの登場に大いに喜んだ。
温かい歓迎を受けた2人が最初に歌ったのは、もちろん「アッティカ・ステート」だ。「囚人は誰も殺してはいない、引き金を引いたのはロックフェラーだ」と歌うと、場内からは大きな歓声と拍手が上がった。


続いて「シスターズ・オー・シスターズ」、そして最後に弾き語りで「イマジン」が歌われた。
ジョンの怒り、そしてやさしさが、家族を失った人たちの心を癒すのだった。

君は夢想家だと言うかもしれない
だけど僕だけじゃないんだ
いつの日か君も加わって
世界が一つになることを願う




参考文献:
『ジョン・レノン ザ・ニューヨーク・イヤーズ』ボブ・グルーエン著 中江昌彦訳(小学館)
『ジョン・レノン』レイ・コールマン著 岡山徹訳(音楽之友社)

ジョン・レノン『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』
ユニバーサル

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