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1972年12月25日~クリスマスにちなんだバンド名のキャロルが「ルイジアンナ」でデビュー

2018.12.24

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1972年10月1日、フジテレビで夕方に生放送でオンエアされていた若者向けの情報番組『リブ・ヤング!』で、「ロキシー・ファッション」という企画が取り上げられていた。
そこでは4人全員がリーゼントに革ジャンという出で立ちのバンドが、一曲だけ自分たちのオリジナルを歌って演奏した。
そのバンドはキャロルという名前だった。

その日、番組に出演していた内田裕也はリハーサルを見てすぐに、プロでデビューしないかというオファーをしていた。
家でテレビを見ていたミッキー・カーチスは、まだ番組が終わる前だったのに電話でディレクターを呼び出した。
そして自分のレーベルで出したいからと伝えて、オンエアが終わった直後に電話でメンバーの矢沢永吉と話を進めていった。

サウンドもヴィジュアルも新鮮だったので、本番中にテレビ局に電話してスカウトした。
次の日の朝には契約して、翌日の昼にはレコーディングしていた。
(ミッキー・カーチス著「おれと戦争と音楽と」亜紀書房)


『リブ・ヤング!』出演からわずか10日後、キャロルが日本フォノグラムと専属契約を結んだという話が広まった。
もちろんプロデューサーはミッキー・カーチスだった。
そして12月25日、クリスマスの日にシングル盤「ルイジアンナ」でデビューすることになった。

ここに至るまでバンド結成からは半年、テレビで発見されてからだと2か月もかかっていない。
まさに電撃的なプロ・デビューだった。

ルイジアンナ

結成当初からキャロルはドイツのハンブルグで武者修行をしていた、革ジャン時代のビートルズを目指していた。
バンド名はジョニー大倉が思いついたものだ。

「オレはさぁ、ゴールデン・バットがイケてると思うんだけど」
 永ちゃんが言った。
「ルーシーっていうのはどうかな?」
 ウッちゃんが言った。
「ジョニーはさぁ、何がいいと思う?」
 永ちゃんがぼくに訊いた。
「キャロルっていう名前がいいよ」ぼくは答えた。
 ぼくの頭の中には『クリスマス・キャロル』の神聖なイメージがあった。なぜだかわからない。でも、このバンド名以外にピッタリくるものはない、と直感したのだ。
(ジョニー大倉著「キャロル夜明け前」主婦と生活社)


それまでもジョニー大倉は「アンナ」と「ジュリア」という、女の子の名前のバンドで活動してきた。
「ヤマト」や「ゴールデン・バット」ではなく、西洋的でやさしい響きの「キャロル」になったのは、奇しくも矢沢永吉とジョニー大倉という個性の対比をあらわしていた。

キャロルはふたりの異なる資質と才能が化学反応を起こして、音楽シーンに大きな波紋を投げかけることになる。

ノンフィクション作家の田家秀樹が初めてキャロルを見たのは12月16日、東京の赤坂にあったディスコ「MUGEN」で開かれたクリスマス・パーティーだった。
デビューを目前にした業界向けのコンベンションだったが、田家は文化放送の深夜番組「セイ!ヤング」の機関紙『ザ・ヴィレッジ』に、その時の感想をこう書いていた。

<演奏は粗削りだが実に小気味よい。ともかくこれが日本人かと思うほどバタ臭くて美しい。そして甘美なまでの若さ>
<日本の本物のロックンローラーたちの誕生をつげる叫びかもしれない>


キャロルが登場したのとほぼ同時期に、日本の音楽シーンを革新的に変えていったサディスティック・ミカ・バンドのリーダーだった加藤和彦と、ギタリストの高中正義もその日はなぜか、同じMUGENに居合わせた。

高中がそれから40年以上の歳月が過ぎて、J-WAVEの『FM Colorful Style 』に出演(2014.09.06オンエア)したときに、こんなエピソードを披露している。

矢沢永吉さんとはね、昔から接点があって、キャロルがデビューしたときに赤坂のMUGENってところで、
大晦日あたりにお披露目のパーティーがあったんです。
加藤和彦さんとシャンパン飲みながらキャロルってカッコ良いねって見てた。
そのあと何年か経って、サディスティック・ミカ・バンドとキャロルでツアーをしたことがあるの。


プロデューサーだったミッキー・カーチスのアイデアで、キャロルはデビュー・シングル「ルイジアンナ」から毎月一枚、連続してシングルをリリースする異例の作戦で、1973年6月までに7枚のシングルが発売されていく。



毎月一枚、必ず新曲をリリースするというのは、コンビを組んだばかりの新人ソングライターだったジョニー大倉と矢沢永吉にとって、きわめて苛酷なしばりだった。
1stの「ルイジアンナ」が20万枚、2ndの「ヘイ・タクシー」が10万枚、それからは出すたびに少しずつジリ貧になっていった。
しかし二人はデビューから半年後、「ファンキー・モンキー・ベイビー」という、日本のロック史に残る傑作をモノにするのである。

ファンキーモンキーベイビー

30万枚を売り上げた「ファンキー・モンキー・ベイビー」のヒットで、キャロルはいよいよ全国的な人気バンドとなり、そこから快進撃が始まった。

キャロルとサディスティック・ミカ・バンドが関東、東北、関西、九州など13カ所のツアーを行ったのは1974年である。
その年は7月7日の「日比谷サード・ロックン・ロール・ストリーク」(日比谷野外音楽堂)と、伝説となった8月10日のイベント「ワン・ステップ・フェスティバル」(郡山市開成山公園)で、両者が競演を果たしている。

しかし人気絶頂にあったにもかかわらず、キャロルは1974年12月30日に解散を発表する。


〈注〉このコラムは 2015年12月25日に公開されたものです。なお初めてフジテレビの『リブ・ヤング!』に出演した日付に関しては、1972年10月8日という説もあります。

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