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森山良子が極めた温かい歌声〜“和製ジョーン・バエズ”として売り出された19歳の少女

2016.01.18

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1月18日は歌手・森山良子が生まれた日です。
今日は彼女のデビュー当時を振り返りながら、長きに渡って愛されてきた歌声の魅力をあらためてご紹介させていただきます。
まず、彼女はどんな家族のもとで生まれ育ったのだろう?
1948年1月18日、東京都で生まれる。
サンフランシスコ出身日系2世ジャズトランペッターの父・森山久と、元ジャズシンガーの母・浅田陽子の間に誕生した彼女。
母方の叔父が日本ジャズ界の草分け的存在として知られるティーブ釜范(かまやつひろしの父)という生粋の音楽一家のもとで育った彼女は、中学時代からウエスタンバンドを結成し、早くから“良血”ぶりを発揮していた。
学生時代、先輩の黒澤久雄(黒澤明監督の息子)に手渡されたジョーン・バエズのレコードがきっかけでフォークグループを結成して数々のコンサートに出演するようになる。
19歳になった1967年の1月、彼女は運命的なステージに立つ。
なんと!ジョーン・バエズの東京公演の前座として出演することとなったのだ。

当時、黒澤久雄の紹介もあって彼女の才能に目を付けていたプロデューサーが“和製ジョーン・バエズ”として売り出そうと目論み、テレビ中継が予定されていたその来日公演に彼女を出演させるために、ジョーン・バエズの宿泊先まで直談判しにいったというエピソードが残っている。
その甲斐あって、当時では珍しかったコンサートのテレビ中継により、彼女は全国的にその存在を知られるようになる。
そして、彼女はジョーン・バエズとの共演から程なくして「この広い野原いっぱい」でレコードデビューを果たす。
実はこの曲、ある日彼女が訪れた銀座の画廊で見つけたスケッチブックに記してあった詩に、30分で曲を付けたものだという。

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「この広い野原いっぱい」/ 作詞:小薗江圭子 作曲:森山良子


その後「今日の日はさようなら」「恋はみずいろ」など、次々とヒットを飛ばし、1969年には、「禁じられた恋」でミリオンセラーを記録。
ジョーン・バエズといえば1960年代から公民権運動にはじまり、反戦運動、人権運動など、社会活動に積極的にかかわってきた歌手である。
森山良子の歌声もジョーン・バエズと同様、透き通るような高い張りのある歌声だ。
しかし、その音楽スタイルはジョーン・バエズとはまったく違っていた…。
アメリカがベトナム戦争への介入を深めていた頃に「フォークの女王」と呼ばれて反戦運動の旗を振っていたジョーン・バエズにイメージを重ねられながら、まだ二十歳そこそこの彼女は様々な場面で「カレッジフォークの女王」と紹介されるようになる。
“女王”という言葉には支配者・権力者のイメージが強い。
静かに心を込めて、切々と語るように歌う彼女のスタイルを“女王”と呼ぶのには、当時のファンたちもいささか違和感を感じていたのではなかろうか?
当時の“森山良子のイメージ”は、彼女を売り込みたい人によって作られたものだった。
だが、長いキャリアの中で、彼女はその温かみのある歌声を極め、幅広いファン層に支持される唯一無二の存在となる。
デビュー以来、アコースティックギターを片手に静かに聴衆に語りかけるスタイルが彼女の原点であり、それを約50年間に渡って一貫して維持してきた。
反戦のメッセージが込められている代表曲「さとうきび畑」も、彼女の歌声だからこそ時代を超えて人々の心に響き続けているのだろう。


【森山良子 オフィシャルサイト】
http://www.ryoko-moriyama.jp

森山良子『フォークソングの時代』

森山良子『フォークソングの時代』

(2015/ドリーミュージック)

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