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レスター・ヤングを偲んで〜スイングジャズからモダンジャズへ、時代の橋渡しをした異端児〜

2016.03.15

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「彼はサックスを斜めに傾けて吹いた。そして興が乗ってくると、それは更に少しずつ水平方向に傾き、最後にはフルートのように真横になった。でも、彼が楽器を高く持ち上げているという風には見えなかった。というより、楽器そのものがどんどん軽くなっていくみたいに見えた。楽器が勝手に宙に浮かんでいるみたいに。そしてもし楽器が宙に浮かびたいと望むのなら、それをわざわざ押さえつける必要はないではないか。」

<ジェフ・ダイヤー(著)/村上春樹(訳)『バット・ビューティフル But Beautiful』新潮社より>

レスター・ヤングはとても不思議なサックスの吹き方をするジャズメンだった。
決しておどけているわけではない。
まだ駆け出しの頃、楽団などで演奏する際にステージが狭かったためテナーサックスを人のいない場所に向けて吹くようにしているうちに癖になってしまったというのだ。
かつて1930年代から1940年代初めにかけて大流行したスウィングジャズの黄金時代から、モダンジャズの時代へと移行していった変遷期があった。
当時活躍したチャーリー・パーカーらの偉大なジャズメンたちにとって、彼は大きな目標となった人物の一人だったと言われている。


映画『ラウンド・ミッドナイト』の中で、デクスター・ゴードンが演じる主人公が、演奏中に「歌詞を忘れたから吹けない」と、テナーサックスを置いて出て行く場面がある。
これは実際に、レスター・ヤングが言った言葉である。
彼は、歌うようにサックスを吹くジャズメンだった。
いや、彼は本当にテナーサックスを吹きながら歌っていたのだ。
彼の演奏スタイルの最大の特徴は、音色もさることながら、その前人未踏のユニークなフレージングにあった。
彼は4小節や8小節単位の型にはまったフレーズ作りを嫌っていた。
わざと1小節を1音で吹いたり、あえて無音の小節をやり過ごしたと思えば、一聴無意味な同一音をくり返したあとに、突如スムーズな均整のとれたメロディーへとつないでして周囲を驚かせた。
絶頂期のソニー・ロリンズがこれに通ずるプレイを駆使してモダンジャズのアドリブの可能性に新風を吹き込んだが、その源はすべてレスター・ヤングが生み出したものだった。

また彼はクラリネットの達人でもあり、その奏法においてもまったく独自のものであった。
1938年~1939年に彼が行ったクラリネットの仕事は、ベイシーやビリー・ホリデイ、そしてレスター自身がリーダーを務める小さなグループ、または無名のオルガン奏者グレン・ハードマンとレコーディングした楽曲に収められている。
だが1939年、彼のクラリネットが誰かに盗まれてしまう。
その後、コンサート・プロモーターでありレコードプロデューサーであるノーマン・グランツという人物にクラリネットを渡され、吹いてほしいと熱心に説得される1957年頃まで、彼はクラリネットのことをすっかり忘れていたという逸話が残っている。


ジャズの歴史本等を読むと“スイングジャズの異端児”または“モダンジャズの開祖”というような紹介をされている彼は、一体どんな経歴を持つ人物だったのだろう?


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──レスター・ヤングは1909年ミシシッピー州ウッドヴィルという町で生まれた。
彼が1歳を迎える前に家族がルイジアナ州のニューオーリンズに移住したため、そこで幼少時代を過ごす。
父ビリー・ヤングは自分の子供たちに様々な楽器を教えたという。
兄弟たちと同じく、彼もバイオリンを手始めにトランペット、サックス、そしてドラムを習得した。
彼が11歳の時、父はビリー・ヤング・オーケストラというファミリーバンドを結成し、旅回りのサーカスと共に南部を巡業するようになる。
当時彼はドラムを担当しており、父親は革製の鞭を使って厳しく指導したという。
その家庭内暴力ともいえる音楽指導をエスカレートさせてゆく夫に愛想を尽かして、彼の母親は家を出ていってしまう。
程なくして19歳になった彼は、父親の反対を押し切りドラムからサックスへと楽器を持ち替え、遂には家出を決行する。
その後、彼はいくつかのバンドを渡り歩いた末に“カウント・ベイシー・オーケストラ”に入る。


1937年、彼は楽団の仕事を通じてビリー・ホリデイと出会う。
ビリーは10歳の時に強姦され、相手が白人だったために(彼女が被害者なのに)逆に売春容疑で逮捕されるという理不尽な経験を強いられ…以来、自暴自棄になり売春や麻薬にも手を染めていた。
お互いに辛い過去を持つ者同士として意気投合し、二人は仕事仲間から飲み仲間となり…後には麻薬仲間にもなってゆく。
彼が最初に麻薬に染まる切っ掛けとなったのは軍隊だった。
第二次世界大戦が始まると、彼のもとにも入隊命令が届く。
1944年に入隊するが、妻が白人だったこともあり彼は過酷な日々を送ることとなる。
その軍隊で経験した組織的な暴力行為が、かつて父親から受けた暴力の記憶を甦らせる。
そんな状況に絶えきれず、彼は麻薬に手をつけだし軍法会議の結果、投獄されることとなる。
1945年に除隊となってからは、彼は酒にも溺れるようになり、ついには妻や子供を置いて家を出てしまう。
以降は、かつてのような演奏をすることが困難となり…アルコール中毒、薬物依存症、栄養失調など様々な問題で彼の肉体と精神はボロボロになってゆく。
そしてパリからの演奏旅行からの帰国途中の機内で倒れ…そのまま病院へ運ばれ、彼は帰らぬ人となった。
1959年3月15日、49歳の旅立ちだった。

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