TAP the DAY

誠に素敵な、才能にあふれる男。2002年12月、彼の他界は音楽社会にとって多大な損失だった。

2016.12.22

Pocket
LINEで送る

ジョーとの時間がどれほど楽しいものだったのか、言葉では伝えきれない。


エンジニアでプロデューサーのグリン・ジョンズが自身の回顧録「サウンド・マン」で、ジョー・ストラマーについて語った言葉である。

ジョンズは1960年代から70年代にかけてザ・ローリング・ストーンズとの一連の仕事のなかで、『アフターマス』『ベガーズ・バンケット』『レット・イット・ブリード』など、ロック史上に残るアルバムを手がけてきた。
それと同時にスティーブ・ウィンウッドが在籍したスペンサー・デイヴィス・グループ、スモール・フェイセズ、トラフィック、ザ・ビートルズ、レッド・ツェッペリン、ザ・フー、レオン・ラッセル、エリック・クラプトンといったアーティストのレコード制作にも携わって、ロックの発展に貢献してきた人物だ。

ザ・クラッシュの5枚目のアルバム、オリジナルメンバーによる最後の作品となった『コンバット・ロック(Combat Rock)』の完成にジョンズが手を貸したのは1982年のことだ。

尊敬していたCBSロンドンのA&Rチーフ、マフ・ウィンウッド(スティーブ・ウィンウッドの兄)から切羽詰まった様子の電話で、クラッシュの新作について助けを求められたのが仕事のきっかけとなった。

クラッシュのミック・ジョーンズが主導して作られていたアルバムは、完成間近になってミックとジョーの意見が割れてしまい、混乱し始めていた。
二人はニューヨークでそれぞれが別のスタジオで、相手の干渉を受けることなく2週間かけてミックスすることになった。

どちらが勝ったのか、わたしはいまだに知らないのだが、いずれにしろ、送られてきたものはマフの眼鏡に到底敵うものではなかった。それでマフはわたしに、先入観のない耳で聴き、ミックスし直し、関係者一同が納得がいくものにしてもらえないだろうか、と頼んできたのだった。
心底正直に言わせてもらうと、わたしはクラッシュのファンじゃなかった。いや、もっと言うと、彼らに限らず、当時存在していたパンク・バンドはどれも好きじゃなかった。


しかしマフが苦境を脱する力を借りる相手として、自分のことを思い出して頼んできたことに心をくすぐられて、ジョンズはまず音源を聴いてみることにした。

マフからはすぐに2枚のアセテート盤が送られてきた。
2枚組として完成されたそのアルバムには、ジョーのものと思われるイラストが描かれていた。

%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%bc%e3%83%bb%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%80%80%e3%82%b8%e3%83%a3%e3%82%b1%e3%83%83%e3%83%88

ジョンズは最初、「どうせ非音楽的な馬鹿騒ぎのひどい代物に決まっている、理解も共感もできないものなのだろう」と、かなり疑い深く聴き始めた。

ところが全てを聴き終えて、嬉しい驚きを感じることになった。
クラッシュの発想、演奏技術、ユーモア、歌詞の良さに圧倒されたのだった。

確かにやりたい放題ではある、けれど彼らは実に賢いアーティストであることが、そしてその音源には優れたアルバムにできるものが十二分に詰まっていることがわかった。
ジョーの活力及び知性とミックの音楽的才能の取り合わせには傑出したものがあったし、トッパーの見事なドラミングとの相性も抜群だった。さらに、彼らのあり余るほどのユーモア感覚にも同じくらい強く惹かれた。


そこでさっそく会ってみることにしたところ、彼らの方からわざわざウェスト・サセックスの自宅まで来てくれた。
だが、到着したのはジョーとバンドのマネージャーだったバーニー・ローズだけで、ミック・ジョーンズの姿はなかった。

ジョンズは外見とは別で礼節をわきまえて、しかも言葉遣いも丁寧なジョーと意気投合した。
そして出したアイデアをどれも快く受け入れてもらったので、すぐに仕事に取り掛かることにした。

マルチテープが自宅スタジオに届くと、ジョンズは自分のペースで朝の10時から作業を始めた。
ロンドンから定刻にやってきたジョーとともに、良い素材ではあっても長すぎる部分が多い音源を取捨選択し、いくつかのトラックは短く編集して1枚にまとめていった。

サウンドやアレンジに関しても思いついたアイデアをどんどん出して、ジョンズはそれを片っ端から試してみた。
その日の午後7時頃にコントロールルームの扉が開くと、不機嫌そうな顔のミック・ジョーンズが入ってきた。

ミックを歓迎したジョンズは椅子を勧めて、その日に出来たミックス音源を聴いてもらうことにした。

ミックは黙って座ったままで、わたしが感想を尋ねると、いくつか自分の手で変えたいところがあると、ぽそりと言った。そこで丁重に伝えた。これはどれもわたしがやったものだから、非情に残念だ。もしも今朝10時に皆と一緒にお越しいただいていたなら、君の意見は尊重され、支持されていたと思う。けれど、君はここに来ないことを選択した。つまり機会を逃した。というのも、わたしには最初からやり直すつもりがないからだ。


その言葉を聞いたミックは、来た時よりもなおいっそう不機嫌な様子で帰っていったという。

だが翌日の朝、ジョンズは気分がすぐれなかった。
自分がミックスすることを、ミックが不満に思っていることは明らかだった。
そこでジョーに電話をかけてこういった。

君との仕事は非常に楽しかったのだけれど、君の友人に対する配慮が足りなかった、このまま続けるのが最善だとは思わない。


数時間後にマフから電話があって、「ミック・ジョーンズは悪かったと言っている。この先セッションには関わらない、この件についてはジョーに全権を預けると約束した」と伝えられた。

それから数日間、ジョーンズとジョーはヴォーカルをいくつか録音し直して、残りのミックスを仕上げてアルバムを完成させた。

5月に発売されたアルバムからは2つのシングルヒット曲、「ロック・ザ・カスバ」と「ステイ・オア・ゴー」が誕生した。
なおジョンズは、傷ついたであろうミックについても、こんな言葉を記していた。

滅茶苦茶にされるとわかっていながら、見ず知らずの輩の手に委ねるのは、苦渋の決断だったろう。にもかかわらず、彼は寛大にもわたしに任せてくれたし、ほとぼりが冷める頃には、少なくともある程度は結果に満足していてくれたように思う。それを知ったのは次に会ったときのことで、ミックはすこぶる上機嫌だった。


最後はジョー・ストラマーについて、ジョンズが書き残した言葉で締めたい。

彼の誠実さは、わたしがこれまで出会ったなかで間違いなく指折りだ。才気煥発で、見るからに自らの成功に微塵も酔っていなかった。誠に素敵な、才能にあふれる男。2002年12月、彼の他界は音楽社会にとって多大な損失だった。




(注)文中のグリン・ジョンズの発言は、すべて「サウンド・マン 大物プロデューサーが明かしたロック名盤の誕生秘話」グリン・ジョンズ(著)、新井崇嗣(訳)からの引用です。

Pocket
LINEで送る

スポンサーリンク

関連アーティスト

関連するコラム

[TAP the DAY]の最新コラム

このコラムへの感想・コメントを書く

Pagetop ↑