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『鉄腕アトム』~日本で最初のアニメソングを詩人の谷川俊太郎が手がけることになった理由

2019.11.16

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漫画『鉄腕アトム』のTVアニメ第1作がフジテレビをキー局に、関西テレビ、東海テレビ、九州朝日放送、仙台放送、広島放送の6局ネッチで始まったのは1963年1月1日である。

オンエアが始まる少し前の11月5日と6日の二日間、東京・銀座のヤマハホールでは「第1回虫プロダクション作品発表会」が開催された。

そこで上映されたのは『鉄腕アトム』の第1話のほか、原作者の手塚治虫による台詞のない映像と音だけの実験的なアニメーション作品『ある街角の物語』と、3分間のカラー小品『おす』だった。

当日の会場で配布されたパンフレットには、アニメの将来に賭ける手塚の意気込みと希望が記されていた。

動画映画の製作はテレビの普及とともに、CMなどでさかんになったとはいえ、そのコスト高と製作日数などの関係から、日本ではまだまだ敬遠されている状態です。でも日本には、戦前から数多くのプロダクションがありましたし、技術的にも、決して外国の作品に劣らないちからをもっていると信じます。
諸先輩方や、同じ道を歩む友人諸氏のご指導や、ご声援にこたえて、微力ながらも、ひとつの道標を築くことができればさいわいです。


『ある街角の物語』は幻想的な映画詩とでもいうべき作品で、手塚が原案と構成を担当し、私財を投入して製作したフル・カラー38分の意欲作だった。
それにオーケストラを使ったオリジナル曲をつけることになったのは、NHKの学校放送や新宿コマ劇場での舞台音楽などを手がけていた音楽家の高井達雄である。

打ち合わせの時、高井は手塚からこういう意見を言われた。

ウォルト・ディズニーは映像を補足するのが音楽だというが、自分は映像と音楽は対等だと思う。

手塚はチャイコフスキーやバッハ、モーツァルトなどのレコードの他、自分でピアノを弾いて音楽のイメージを高井に伝えてきた。
高井はそれに応えて半年以上もの時間をかけてワンシーンごとの譜面を書き、手塚と確認し合いながら『ある街角の物語』の音楽をていねいに完成させていった。


非商業的な芸術作品といえる『ある街角の物語』と同時進行で、手塚は国産初の商業的な娯楽作品である『鉄腕アトム』にも取り組んでいた。
これは少人数のスタッフと低予算であっても、アニメ作品を作ることが出来るはずだとして、虫プロダクションの経営を軌道に乗せるために引き受けた仕事だった。

しかし1月にオンエア開始を目前に控えて、自分がイメージした音楽にならないことで手塚は困っていた。
すでに高井に頼んだこともあったが、そのときはきっぱりと断られてしまった。
『ある街角の物語』の仕上げに全力投球していた高井にしてみれば、それ以外の仕事を引き受けるなど論外だったのだ。

したがってヤマハホールの発表会ではフィルムに音付けが間に合わず、ありもののレコードなどから「ホリデー・イン・ニューヨーク」など、気に入った音楽を録音したテープと音声テープと同時に流して手塚は急場をしのいだ。

発表会から数日後、高井は虫プロダクションに呼ばれて足を運んだ。
そこで手塚から、「ボクの世界を誰よりも知っている高井さんに、あらためてまた主題歌をつくっていただきたいのです」と頼まれたのである。

翌日の朝9時までに3タイプの主題歌を作ってほしいという、無謀ともいえる要望だったが高井は意を決して引き受けた。
その帰りに電車の中で窓から夜空を見ていると、インパクトのあるイントロが閃いたという。
すぐにメロディも浮かんだので、はやくもここで1曲が完成した。

高井は約束通り、翌朝には3曲の譜面を持って手塚のもとを訪れた。
最初に電車の中でひらめいたのA案のほか、B案とC案を譜面で渡すと、手塚が自分でピアノを弾いてみて選んだのはA案だった。

ところが朝10時から始まったテレビ局やスポンサー、代理店との打ち合わせの場で主題歌は手塚以外の全員に反対された。

「子どもにはシンコペーションのリズムは難しすぎる」
「コード進行が子どもにはなじまない」
「子どもが習っている縦笛で吹くことができない」


だが「映像と音楽は対等だと」というだけあって、手塚の音楽に対するこだわりは生半可なものではなかった。
喧々諤々の話し合いを断ち切るように、手塚から最後のひと言が放たれた。

「もしA案がダメなら、ボクはアトムの放映をとりやめます」

こうして主題歌はひとまず決定することになったが、手塚が安易な歌詞で納得するはずもない。
ぎりぎりのタイミングでようやく決まったために、当初は歌詞がないインストによるテーマソングが流された。



歌詞がつけられるのはオンエアが始まってからのことで、そのきっかけは手塚が作詞を頼みたいと思える適任者と、たまたまパーティーの会場で出会ったことだった。

手塚が高井にこんな電話をかけてきた。

「昨夜のパーティーで、宇宙とひとり向き合う少年の心を、みずみずしく表現した『二〇億光年の孤独』という詩集と、詩語がとても新鮮な『六十二のソネット』を出している谷川俊太郎さんという方にお会いしたのです。さっそくお話して、主題歌の作詞を依頼しました。電話がありますから、よろしくお願いします」


そして谷川からも高井のことろに電話があり、メロディをピアノで弾いたテープと譜面を送った。
数日後、谷川はできた歌詞を電話で読み上げてくれた。

それを聴いた高井は一か所、「やさしい心」とあったのを「心やさし」に変えてもらったが、それが最終決定だった。
もちろん手塚も満足で、それから歌詞入りのオープニングが流されるようになった。

谷川はそれかた約40年後、高井の作品集の前文にこんなメッセージを寄せている。

私の作詩した歌の中で、こんなに愛された歌は他にありません。
〈略〉
実を言うと、「ラララ」は窮余の一策でした。ところがカラオケなどで皆が歌うと、思いがけずそのラララが生きるのです。歌は言葉の意味だけではないと学んだことも、アトムの歌からです。






・本コラムは2017年1月1日 に公開されました。
〈参考文献〉橋本一郎 著「鉄腕アトムの歌が聞こえる ~手塚治虫とその時代~」 (少年画報社)

〈参考コラム〉アニメ作品が生んだ名曲たち「鉄腕アトム」〜作詞者・谷川俊太郎の戸惑いと驚き〜 http://www.tapthepop.net/news/37582

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