TAP the DAY

モンキーズに同姓同名がいるという理由で改名したデヴィッド・ボウイ

2017.01.14

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1966年1月14日、一枚のシングルが発売された。
それは、デイヴィー・ジョーンズがデヴィッド・ボウイへと生まれ変わったことを知らせる一枚だった。

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1964年、17歳の少年だったデイヴィー・ジョーンズには、ロック・スターになるという強い野心があった。
父親から「ビートルズを成功に導いたブライアン・エプスタインのような存在が必要なんじゃないか」というアドバイスを受けたデイヴィーは、まず優秀なマネージャーを探すところから始める。
最初に目をつけたのは洗濯機の販売で成功を収めたジョン・ブルームという企業家だった。
デイヴィーは一枚の手紙をブルームのもとへ送った。

「もし、洗濯機を売りさばかれたように、当方のポップ・グループの売り込みに成功されたなら、貴殿はまさに勝利者です」


大胆不敵なこの手紙に興味を持ったブルームは、音楽出版社で働くレズリー・コンを紹介し、デイヴィーは幸先よくマネージャーを獲得するのだった。
コンは早速イギリスの大手レコード会社、デッカに連絡をとってオーディションをセッティングし、その年の6月5日に「ライザ・ジェーン」でレコード・デビューを果たす。



しかしシングルはまったくヒットせず、デッカとの関係はこの1枚で終わってしまった。
それまでバックを務めていたキング・ビーズも、まだ学生だったこともあって全力投球なデイヴィーについていくことができず、解散の道を辿ってしまう。

デイヴィーはコンの紹介でマニッシュボーイズというバンドに加入すると、翌1965年に2ndシングル「アイ・ピティ・ザ・フール」をリリースする。しかしレコードはまたしてもヒットしなかった。
デイヴィーは再びバンドを抜けると、今度はロンドンで2番目に音がデカいと評判(1番目はザ・フー)のロウアー・サードに加入した。
ところが、ここにきてそれまでマネージャーを務めていたコンが、デイヴィーから手を引いてしまう。
コンはデイヴィーが成功することを確信していたが、それをサポートする力がなかったと説明している。

「彼は自分が偉大なスターになるんだという信念を熱くもっていました。私も同感でした。ただ私の最大の問題は、それをバック・アップしてやるだけの資材がなかったこと。
(中略)悔しいが、私は彼を手放しました」


次にデイヴィーのマネージャーとなったのは、ムーディー・ブルースのロード・マネージャーをしていたラルフ・ホートンという人物だ。
1965年9月の中頃、ラルフは早速デイヴィーのことで、マネジメント事務所を運営していたケネス・ピットのもとへ相談にいった。
するとピットは1つのアドバイスをした。

「デヴィッドは、名前を変えた方がいいね」
「何故?」
「ジョーンズって若いのは、掃いて捨てるほどいるからさ。
しかもデイヴィー・ジョーンズっていうのがすでに1人いるんだよ。」


ラルフがアドバイスをもらった日から1週間ほど前の9月8日、アメリカではオーディション番組から1つのアイドル・バンドが誕生していた。
およそ400人の中から選ばれた彼ら4人はモンキーズと呼ばれ、テレビ番組という強力なバックがついていることもあって、ブレイク間違いなしと言われていた。
そのメンバーの1人の名前が、デイヴィー・ジョーンズだったのだ。

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ラルフから改名を求められたデイヴィーは、すぐに新しい名前を決める。

デヴィッド・ボウイ。
ロック史に刻まれることになる偉大な名前が誕生した瞬間だった。
ボウイの由来はジェームズ・ボウイからだといわれている。
それはテキサス革命の英雄の名で、彼が愛用していたボウイナイフの名とともに知られている。

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成り行きで改名を余儀なくされたデヴィッド・ボウイだったが、この変化は精神的にも大きな影響をもたらしたようだ。
それから半年後にラジオに出演した際、デヴィッドはこうコメントしている。

「君はバックのバズと一緒にやってるね。ずっと彼らとやって来た?」
「デヴィッド・ボウイとしては、イエス。ずっと一緒です。かれこれ六ヶ月くらいになるかなぁ」
「『デヴィッド・ボウイとしては』ってのは、どういうこと?」
「その前には、別の人間だったからね」




参考文献:
『デヴィッド・ボウイ』ジェリー・ホプキンス著 きむらみか訳(音楽之友社)
『デヴィッド・ボウイ 神話の裏側』ピーター&レニ・ギルマン著 野間けい子訳(CBSソニー出版)

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