TAP the DAY

7月1日の武道館ライブを観て「ビートルズは自分がやらなければいけない」と思った大学生の石坂敬一

2017.07.01

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日本武道館で1966年6月30日から7月2日まで、合計で5回行われたビートルズのコンサートは、会場に観に来た人たちの人生に大きな影響を及ぼした。

7月1日に大学の授業を休んで観に行った石坂敬一も、ライブが終わった後に自分の将来の仕事を決断していた。
遺作となった語り下ろしの自伝「わがロック革命 それはビートルズから始まった」のなかに、こんな記述が残されている。

コンサートが終わって思ったのは、「ついに観た!」という感激はもちろんあっただけど、それとともに、ビートルズのコンサートを観ていない人は何人いるのかということだった。当時の日本の人口1億人で、武道館でビートルズを見た人1万1000人くらい。ほとんどの日本人を観ていない中で自分が観られたことが嬉しかった。そしてもうひとつ。大学卒業後の自分の将来について、音楽業界で働く決意が固まった。ビートルズを観て、「ビートルズは自分がやらなければいけない」と思った。


石坂はその言葉の通りにビートルズの音楽を研究し、同時にイギリスの歴史を勉強した。
それはイギリスという国の文化の裏側を知らないと、ビートルズの音楽の本質を理解できないと思ったからだ。

ビートルズのメンバーたちは皆、第2次世界大戦に人生を翻弄された親たちの間に生まれた子供だった。
ではイギリスにとっての第二次世界対戦とは、いったいどういうものだったのか。
戦時下のイギリス庶民がどういう生活をしていて、戦後になってからはどんな気持ちで生きていたのか。

そんな風にイギリスという国と文化に興味を持ったところから、歴史の勉強に発展していったという。
アメリカに対する複雑な思いの反応があったから、イギリスの若者は総じてアメリカのブルースに興味を持つようになった。

石坂はそこでロックンロールの歴史を紐解いて、もともとアメリカで生まれたロックンロールはイギリスには縁がなかったのに、英語圏の強みもあってクリフ・リチャード、トミー・スティール、 ジョン・レイトン などの歌手がフォロワーとなって出てきて、ロックの地盤ができていたという流れを知った。

アメリカにおけるロックンロールの伝統に束縛されることなく、自分たちのやり方で自由に思ったことを表現したビートルズの音楽が、粗っぽくても斬新に聞こえたのは、そういう先駆者を乗り越えたからだと理解した。

またビートルズがイギリスという国の歴史に果たした功績として、ヴィクトリア朝の伝統を壊したこともあげられるとの結論にも達した。
階級制度が残っていて保守的だった国民のなかから、優等生芸能人だったクリフ・リチャードやシャドウズなどが人気が出て有名になったことに対して反感を持った大学生たちを中心に、「カウンターカルチャー」が勃興してきた。

カウンターカルチャー派はアメリカで抑圧されていた黒人音楽にシンパシーを強く感じて、「アメリカの黒人、打ちひしがれた人々を呼ぼう」「マディ・ウォーターズやジョン・リー・フッカーを呼ぼう」と、1960年にナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバルを開催した。
そのなかにはアレクシス・コーナーというブルースの運動家とローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズ、ブルースの専門家だったジョン・メイオール、若いミック・ジャガーやエリック・クラプトンなどもいた。

お行儀のいい芸能ポップスに辟易していたイギリスのカウンターカルチャー派の一派が、リバプールではザ・ビートルズであり、ニューキャッスルではアニマルズであり、ロンドンのリッチモンドではローリング・ストーンズであり、トッテナムではデイブ・クラークファイブだった。

東芝音楽工業の入社試験で英語で文章を作りなさいという問題が出たとき、石坂は答案用紙の冒頭に「アメリカに行った人ならわかるが」と但し書きして、”Dirty Is Beautiful”と書いた。

これは当時のヒッピーの金科玉条。僕の理解するビートルズも、この言葉に象徴されていた。彼らの音楽には、汚いものを美しいと愛でるような、皮肉っぽい体質が最初からあった。でも入社試験の担当者わからなかったらしい。 入社試験では自分の知識を全部書こうと思っていた。問題にないことでもとにかく書いて自分をアピールした。面接では「入社したら何がやりたいか?」と訊かれたので、「制作、究極は邦人アーティストの制作、まずやりたいのは制作と宣伝販促、ザ・ビートルズをやりたい」と言って締め括った。


石坂は慶應義塾大学を卒業した1968年4月、ビートルズのレコードの発売元である東芝音楽工業株式会社に入社している。
そこから洋楽マンとしてのキャリアをスタートさせると、入社してまもなくビートルズ担当のアシスタントとなった。

そして1969年1月に発売される『ザ・ビートルズ(通称ホワイト・アルバム)』を手がけることになり、解散後から1970年に出た4人のソロアルバムまでを手伝った。
その間に担当ディレクターとしてピンク・フロイドの『原子心母』や、T・レックスの『電気の武者 』などを成功させて、数々のヒット作をものにした。

念願だったビートルズに関しては1972年のベスト・アルバム『ザ・ビートルズ 1962-1966 』と、『ザ・ビートルズ 1967-1970』を大ヒットさせた功績が特筆される。
大学3年の時に観たビートルズの来日公演で感じた「ビートルズは自分がやらなければいけない」との思いが、「もっと多くの人、とくに若い人に伝えること」にあるという意識になって、地道なプロモーションの積み重ねでここに結実した。



武道館のコンサートで石坂が驚いたのは、1曲めが「ロック・アンド・ロール・ミュージック」だったことだ。
その頃の来日公演は、どのアーティストもわかりやすい代表曲を中心に構成していた。
しかしビートルズは大ヒット曲を演奏せず、シングルのB面の地味な曲やアルバムのナンバーを堂々と演奏した。

彼らは芸能人ではなく、真剣に音楽を追求しているアーティストだった。
石坂は後にそうしたことがイギリスで起こった音楽革命に、間違いなく結びついていることを知ることになる。

そうした思いがあったからこそ「赤盤」「青盤」と呼ばれたベスト・アルバムを、それぞれ累計で100万枚を超える記録的なセールスに押し上げることが出来た。

これによってビートルズの評価が決定的なものとなり、彼らは時を超えて日本でもっとも愛されるバンドのひとつになったのだ。


石坂敬一『我がロック革命: それはビートルズから始まった』(単行本)
東京ニュース通信社


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