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ブルース・スプリングスティーンが迎える68歳の誕生日によせて(Photo by 井出情児)

2017.09.23

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75歳になっても元気にツアーを続けているポール・マッカートニーが9月15日の夜、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで2日間にわたる公演をスタートさせた。
そこにブルース・スプリングスティーンが登場したのは、アンコールのときだったという。

ニューヨーク・ポスト紙によると、ブルースは自らのバンド「Eストリート・バンド」のギタリスト、スティーブン・ヴァン・ザントと共に舞台に現れた。
観客席から驚きの歓声が上がる中で、ポールとブルースはハグをしてから、ビートルズの「i saw her standing there」を披露した。
その短い曲が終わるのを惜しんだポールは、エンディングになって「もう一度やろう!」と呼びかけた。

翌日、ポールが「ザ・ボスとロッキン・アウト――あんまり出来が良くて、2度もやることになった」と、自身のTwitterにコメントを投稿した。



ボス=ブルース・スプリングスティーンは若い頃からいつも、ライブ・パフォーマンスで圧倒的な存在感を発揮してきた。

1949年9月23日、ニュヨークのマンハッタンから車で1時間ほどの距離にある、ニュージャージー州フリーホールドで生まれたブルースが、エルヴィスのロックンロールと出会ったのはテレビで見た『エド・サリヴァンショー』を通してだった。
(1956年9月9日、10月28日、1957年1月6日の通算3度出演)

9歳の頃だった。俺がテレビの前に座って、母親がエド・サリヴァンをかけると、エルヴィスが出てきた。確かあの頃からだったが、俺は母親の顔を見るとこう言ってた。
『あんな風になりたいんだ』って‥‥.
でも、大きくなると、あんな風にはもうなりたくなくなったけどね。




エルヴィスに憧れてギターを始めたブルースは、地元ニュージャージーでバンド活動に参加して頭角を現し、マネージャーとなるマイク・アペルに見出されて1972年に、CBSレコードのプロデューサーだったジョン・ハモンドのオーディションを受けて認められる。

ボブ・ディランを発見したハモンドは、後に取材に答えて「この若者は絶対にある世代に受けるとすぐ直感できました」と回想している。

“信じられませんでしたね。生涯で三度感じたか感じないかの衝撃を、私は受けました。”


ブルースがアルバム『Greetings From Asbury Park,N.J.(アズベリーパークからの挨拶)』(1973年)でデビューしたのは、23歳のときだった。

ここから「誠実」という言葉が似合うアーティスト、「正直」なシンガー.ソングライター、そして「生粋」のロックンローラーのキャリアが始まった。

1974年にボストンで行われたライヴを観たローリング・ストーン誌のライター、ジョン・ランドゥがその夜に初めて演奏された新曲「Born To Run(明日なき暴走)」などを聴いて、強い衝撃を受けたことから運命的な出会いが起こった。
ランドゥはリアル・ペーパー誌のコラムで、ロック史に残る有名な一節を書いて絶賛した。

“ぼくはたいへんなものを見たのだ。ぼくは、ロックン・ロールの未来を見た。その名はブルース・スプリングスティーン”


それを読んだブルースは希望が湧いたという。

バンドと俺は当時週に50ドルしか稼いでいなかったが、あれを読んでまたやる気が出たんだ。とにかく俺の音楽が誰かの心に届いていたことがわかった。


ブルースはすぐにランドゥと親交を結ぶようになる。
そして1975年には彼をプロデューサーとして迎えることで、アルバム『Born To Run(明日なき暴走)』が誕生し、そこから世界的な成功への道が開かれていく。

1975年にサード・アルバム『明日なき暴走』がリリースされると、初めてヒットを記録してBillboard 200の10位内に入った。
また、タイム誌とニューズウィーク誌の表紙を同時に飾るという快挙も成し遂げる。



ところでハモンドの推薦する無名の若者のデモ・テープを聴いて、10枚ものアルバムの長期契約にサインしたのはコロムビアの社長、伝説的ミュージックマンのクライヴ・デイヴィスだった。

2013年に来日したクライヴは日本外国特派員協会で行った記者会見のなかで、「これまでの長いキャリアの中で最も印象に残った3人は?」という記者からの問いに対して、ジャニス・ジョプリンとホイットニー・ヒューストンに並んでブルースを挙げた。

クライヴはいつも小さなライヴハウスでのライヴばかりだったデビュー当時のブルースを、LAのアーマンソン・シアターという大きなホールに出演させたことがあった。
ジャズのマイルス・デイヴィスや、カントリー・ロックのニューライダース・オブ・ザ・パープル・セイジなどとの共演だったが、初期のディランを継ぐフォーク・アーティストとして売り出されていたブルースに、こんな助言をしたという。

「ここはMax’s Kansas City やCBGBのようなちっぽけなクラブじゃない。こんなデカいステージでやるなら、それを最大限に生かせ。動きまわるんだ!」


それから2年後、コロンビアを去ってアリスタ・レコードを設立した頃だったが、クライヴは他社のアーティストにもかかわらず、ブルースがボトムラインで行ったライヴを見に行った。
そこで見たのはステージ狭しと動き回り、テーブルの上に飛び乗って熱狂的なパフォーマンスを繰り広げるブルースだった。
ライヴ終了後、クライヴが楽屋を訪ねると、ブルースはこう言ったそうだ。

「クライヴ、あれくらい動けば大丈夫だよな?」

エルヴィスが1977年に亡くなった時、ブルースはこんなふうに考えたという。

あれほど財を成した人間がどうして最後にはあんな最悪の形で終わらなきゃなんないんだろうって。夢を勝ち取るために戦えるだけ、またそれを実現させるだけ、強い人間じゃなきゃ夢なんか何の意味もないってね。




ブルースにとってエルヴィスの生涯は、教訓と忠告になった。
名声や知名度がどんな結果を引き起こすかしれないという恐怖感、それに打ち勝つためには自分がしっかりしていないといけないことを学んだ。
だから、常に自分を知っていなければならない。

そして、自分の夢を知っていなければ、前に進んでいくことは出来ない。



(注)アイキャッチ画像、および本文中に使用したニュージャージーのアズベリーパークのモノクロ写真は、カメラマン井出情児氏の作品です。また文中のブルース・スプリングスティーンの発言は、デイヴ マーシュ 著、小林宏明 訳「ブルース・スプリングスティーン・ストーリー 明日なき暴走」 (ソニー・マガジンズ文庫)、およびデイヴ マーシュ 著、岡山 徹 (翻訳)「グローリーデイズ ― 80年代のスプリングスティーン 」(ソニー・マガジンズ文庫)からの引用です。


“I Saw Her Standing There” Paul McCartney & Bruce Springsteen@MSG New York 9/15/17

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