TAP the DAY

りりィを偲んで〜十代で天涯孤独となった少女が歌った圧倒的なリアリティー

2017.11.11

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1972年に1stシンングル「にがお絵」でデビューを果たしたりりィ。
福岡県出身の20歳のハーフ美人だった。
独特のハスキーボイスが話題となり、1973年7月5日にリリースしたこの3rdシングル「心が痛い」が有線放送のリクエストから火が着きスマッシュヒットを記録した。
その追い風に乗って翌年には5thシングル「私は泣いています」(1974年3月5日発売)が85万枚の大ヒットとなり、一躍“時の人”となる。
りりィは、デビューの経緯から売れた当時のことをこう振り返っている。

「私がギターを覚えたのは中学3年の時でした。福岡の中洲でバーをやっていた母が亡くなって…それと同時に兄も行方不明になってしまいました。まだ私が17歳の時でした。米軍将校だった父(ロシア系イギリス人)は、私が生まれてくる前に朝鮮戦争で戦死したと聞かされてましたし…もう天涯孤独なのだから地球上のどこにいても同じという気持ちがありました。福岡から東京に移り、新宿の街角でギターを搔き鳴らして歌うようになってました。私より少し上の世代がフォークミュージック歌いながら安保闘争に闘志を燃やしていた時代です。私は一匹狼で他のフォークの人たちと交わることもなく、路上で歌い続けていました。19歳になった頃、新宿のスナックで弾き語りをしていたら…ある男の人にプロにならないか?とスカウトされたんです。」

その男こそが、後に彼女を売り出すこととなるプロデューサー寺本幸司だった。
寺本は、彼女をスカウトしたその日のことを鮮明に憶えているという。

「彼女はビートルズの“ミッシェル”や“イエスタディ”を歌っていました。絶品もんで寒気がするほどでした。」

その場でスカウトされた彼女は、翌年にデビューを果たす。
デビュー後、寺本は彼女に曲作りに関してあるヒントを与えたという。

「自分の人生の“実感”を唄ってみなさい」

めずらしく街は 星でうずもれた
透みきるはずの 体のなかは
氷のように 冷たい言葉で
結ばれた糸が ちぎれてしまう

心が痛い 心がはりさけそうだ
なにも いわないで
さよならは ほしくないよ


彼女は書き上げた曲は、この「心が痛い」だった。
レコード会社の担当ディレクターだった武藤敏史は、当時をこう振り返る。

「この歌にはハーフで十代から天涯孤独というストーリーが凝縮されていたんです。彼女が声を振り絞りながら歌う“心が痛い”という歌詞(フレーズ)にはリアリティーがあり、聴く者の心を強く打ったのだと思います。」

その後、彼女は「私は泣いています」で人気歌手の仲間入りを果たすこととなる。
そんな“上り調子”の状況とは裏腹に、彼女はいたってクールだったという。

「一生やっていくつもりはなかったので“とりあえず2年だけなら”と言って始めちゃったんです。デビューして、2枚目3枚目と出して…売れ行きもそこそこで“そろそろ約束の2年目だなぁ”と思って、歌手を辞めたらカナダに移住しようと考えてました。
ところが、そのタイミングで『私は泣いています』が大ヒットして辞められなくなっちゃったんです。最初はそれでも辞めると言い張ってたんですが、周りのみんなに辞めないで!と頼み込まれて…カナダ行きを断念したんです。」


ふたりの間に ひびわれたガラス
小さくふるえる うしろ姿も
終わりがきたのを 知らせるように
だんだん涙に 消えていった

心が痛い 心がはりさけそうだ
なにも いわないで
さよならは ほしくないよ



<参考文献『フォーク名曲事典300曲』/富澤一誠(ヤマハミュージックメディア)>

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