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レディー・ガガやビョークよりも奇抜!?還暦を超えた“パンクの母”ニナ・ハーゲンのド派手な足跡

2018.03.11

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ドイツが生んだ“パンクの母”ことニナ・ハーゲンが63歳の誕生日を迎えた。
メッセージ性の強い表現。
パンク〜グラムロックへのリスペクト。
その奇抜な風貌からは想像しがたい歌声。
オペラ、カンツォーネ、そしてヨーデルやホーミー(モンゴルの伝統的な発声法)、絶叫、悶絶、唸り声などなど…多彩な要素を取り入れた唯一無二の歌唱スタイルはまさに圧巻の一言に尽きる。
今日はカルト的な人気を誇った彼女の足跡をあらためてご紹介します。


1955年3月11日、彼女は旧東ドイツで生まれる。
父親は脚本家で、母親は女優という芸能家族だった。
当時の東ドイツはベルリンの壁によって西ドイツと分断されている、いわゆる共産圏時代。
彼女の父方の祖父は経済学者兼銀行家だったが、ユダヤ系であったためナチスの収容所で亡くなっている。
複雑な家庭環境に生まれた彼女は、母親と一時同棲していたことのある作家であり音楽家のヴォルフ・ビーアマンを父のように慕って育ったという。
子供の頃から母親の影響もあり女優を志していた彼女だったが、演劇学校の入学試験であえなく不合格となったことをきっかけにバンドを結成。
当時、ロンドンの若者たちが熱狂していたグラムロックや、ニューヨークで産声をあげようとしていたパンクなどの影響を受けて歌うようになった彼女は、十代にして表現者としてのキャリアをスタートさせる。
19歳を迎えた年(1974年)に東ベルリンで通っていた学校の歌手養成コースを卒業した後は、国内で活動していたバンドを渡り歩きながら独自の歌唱スタイルと表現力に磨きをかけてゆく。
そんなある日、父として慕っていたヴォルフ・ビーアマンが、反政府的な言動で旧東ドイツ政府により市民権を剥奪され国外追放となる。
公然と彼を支持した彼女も、国外での演奏活動の帰りに旧東ドイツから再入国を
拒否され、そのまま西ドイツへと亡命してイギリスへと渡った。
そして1977年(当時22歳)にイギリスからドイツに帰国した彼女は、西ベルリンのクロイツベルクでニナ・ハーゲン・バンドを結成する。
翌1978年には1stアルバム『Nina Hagen Band』でデビューを果たし、そのインパクトの強いパフォーマンスとサウンドを武器に、国外でも大きな注目を集める存在となる。


しかし、ほどなくしての彼女とメンバーとの間に確執が生じ始める。
契約を結んだレコード会社(CBS)とはアルバム2枚をリリースしなければならない約束が交わされていたため、2ndのレコーディングはまったく気持ちの通わないまま決行されることとなった。
翌1979年にリリースされたそのアルバムには『Unbehagen (不愉快)』 という皮肉なタイトルがつけられた。
その後、彼女は1982年(当時27歳)からソロ名義で活動するようになる。
さらなる飛躍を遂げるべく英語圏向けに製作したソロ第一弾アルバム『NUNSEXMONKROCK』では、ダンスミュージックやレゲエの要素を取り入れるようになり、彼女の世界観はよりエキセントリックなものへと進化していく。


当時、そんな彼女のソロ作品をローリングストーン誌は「史上最も聴くに耐えないアルバム」と紹介したという。
そんな批判的なコメントすらニナ・ハーゲンにとっては、むしろ輝かしい称号だったことは言うまでもない。
以降、彼女は音楽活動と平行しながらUFO論、インドへの傾倒、希少動物の保護などで注目を集めることもあった。
80年代〜90年代と結婚、出産、離婚、そして再婚を繰り返し、まさに波瀾万丈な人生を歩んできた彼女は、現在20歳以上歳の離れたカナダ出身の理学療法士を伴侶にしているという。





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