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純烈は不安感、恐怖心、無力感、使命感、正義感、すべて抱えて「希望」に向かって走ってきた

2018.12.28

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「3月11日はやはり東日本大震災が起きた日として自分の中に在ります」と語るのは、歌謡コーラス・グループ「純烈」を結成してリーダーとなり、プロデューサー役を務めている酒井一圭である。
彼が結成した純烈は、3年に及ぶ準備と助走の期間を経て、2010年6月にメジャー・デビューを果たしている。

しかし「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」シリーズなどで、子どもたちのヒーローを演じた俳優を中心に結成された純烈は、活動を始めた時点で平均年齢が30代を超えていた。
大きなバックボーンもないなかで始めた音楽活動だったので、仕事は少ないし知名度もなかなか上がらず、先行きを考えると道は険しいものだった。

そんななかで2枚目のシングルを出す予定だったところへ、2011年3月11日に東日本大震災が発生して、予定がまったく立たなくなってしまった。
それによる自粛ムードとともに、彼らの行く手には暗雲が立ち込めていった。

純烈のメンバーたちはテレビやネット上で伝えられる震災の被害の凄まじさと、その爪痕を見ることで被災地の現状を想像しながら、一人ひとりが様々なことを考えていたという。
酒井はいちはやく公式ブログ上で、リーダーの立場から「希望」という言葉を口にしている。

あの瞬間、止まってくれ!止まれ!(もうダメか)と、次男を抱きしめながら、駅ビルの屋上で覚悟しました。
避雷針とアンテナの甲高い金属音、周囲の高層マンションと駅ビルは回るように揺れ、しばらく立ち上がることもできず、携帯を取り出しても、上手くタップできなかった。
あれから毎日奔走しております。
不安感、恐怖心、無力感、使命感、正義感、すべて抱えて「希望」に向かって走っております。


そして一週間ぶりに全員が集まって、地震のことから今後の活動をどうするのかという基本方針まで、あるいはシングルのリリース計画などについても、長い時間をかけて話し合った。
メンバーで最年長の小田井涼平が、そのことをブログにこう記していた。

こんな状況でもいたって前向きに意見を交換していく中で、やっとこさ本来の自分を取り戻すことが出来た感じがして、地震の日以来やっと地に足をつけることが出来た気がしました。
木曜日のメルマガにも書いたのですが、個人で、グループで色々考えて、アイデアを出し合って今後も”純烈”は活動をしていきます。
今後の活動が皆様にも、自分達にも有意義なものであるように頑張ります。
最後に言葉だけで本当に申し訳ないのですが、まだまだ寒い日が続きますから被災地の皆様、少しでも暖かくして頑張って下さい。
物資がない中、無責任かもしれませんが本当に本当に頑張って下さい。

涼平


3月19日午後6時45分、栃木県鹿沼市にあるフォレストアリーナ(鹿沼総合体育館)には、福島県相馬郡飯舘村から避難してきた314人が到着した。
そして翌日の午前10時には医師会および薬剤師会によって、避難者の健診所を開設された。

午後6時55分には、避難者の第2陣として約197人が到着した。
そして約500人以上の人たちによる、避難所の生活が始まったのだ。

純烈はそこへ呼ばれて、慰問ライブを行うことになった。
酒井はその話を引き受けた時から、「そういう人たちを目の当たりにしてぼくらが通用するのか、そこでほんとうに歌うことができるのか」と考えた。
もちろんグループを続けるかどうかを問われる、重要な分岐点になるということも感じていた。

現地に到着すると彼らを呼んでくれたNPOの担当者から開口一番、「絶対に、頑張って下さいって言わないで」と、泣きそうな顔で告げられたという。
会場として用意された柔道場に行って自分たちでスピーカーなどをセッティングし、椅子を並べていざショーを始めようとしても、客は誰もやって来なかった。
そこで避難所を回ってチラシを配りながら、「昭和歌謡を、歌をやっています、よかったら聴きに来て下さい」と、一人一人に声をかけて歩いた。

やがてたった一人だけだったが、客が来たのでショーを始めることにした。
そして1曲目に選んだ黒沢明とロス・プリモスのカヴァー曲、「ラブユー東京」を歌い始めた。

 七色の虹が 消えてしまったの
 シャボン玉のような あたしの涙
 あなただけが 生き甲斐なの 忘れられない
 ラブユー ラブユー 涙の東京


ところが2コーラス目に入ったところで、たった一人の客は立ち上がって会場から出ていってしまった。
「あー、やっぱり、無理か‥‥」と思いながら、それでも歌い続けていると出ていった人が戻ってきたのだ。
しかも、何人もの人たちを連れてであった。

そこからはまわりの迷惑にならないようにとなるべく小さな音にして、盛り上がり過ぎにも気をつけながら、予定の時間を迎えてショーは無事に終了した。
ところがそのとき、メンバーの小田井に抱きかかえられていた幼い子どもが、一向に離れようとしなかったのだという。
酒井がこう語ってくれた。

普通だったらお母さんが「もうこっち来なさい」と声をかけるんでしょうけど、お母さんもずーっと小田井さんと子どものことを見つめているだけなんです。
たぶんですが、安否のわからないだんなさんのこと、だんなさんが子どもを抱いている姿と小田井さんが、重なっていたのかなと思います。
とにかく周囲は暗くなってくるんですが、小田井さんもお母さんもずーっとそのままなので、東京へ帰らなければならないのに、ぼくらもそのままじっとしていました。


それについては小田井も翌日、こんな言葉をブログに残している。

ということで、日付が変わってしまいましたが、金曜日担当の涼平です。
昨日は遅くまでメンバーと一緒に行動しておりまして、かなり充実した‥‥それでいて今後の純烈を大きく左右する一日でした。


それから数時間後、酒井も力強い決意を宣言していた。

ダメかもしれないと思った震災の瞬間から生き長らえた。
ならばやれるだけやるしかないなと腹を括りました。
36歳を迎える日本男児として。
俳優や歌手以前の自分自身が暴れるんです。
人を喜ばせたり、驚かせたり、
感動させる為にこの職業を選んだんです。
純烈は、唄うしかない。
やらねば。
メンバー全員、そう思っています。


キャンペーンなどもふくめて延期になっていた新曲「キサスキサス東京」は、7月に発売されたもののヒットには至らなかった。
そして2枚のシングルで結果を残せなかったことから、契約していたレコード会社に見切りをつけられた。

彼らはそのとき、カップリング曲として新たに「ひとりじゃないから」という歌をつくっている。
純烈はそこから「元気になるムード歌謡」という道を目指して、避難所や老人介護施設を積極的に慰問する一方で、スーパー銭湯や各地のお祭りなどへと活動の場を拡げていった。

地道な活動で支持者を少しずつ増やしながら年に1枚ずつシングルを出して、実力をたくわえていった純烈は、大震災から6年後にいよいよ蕾から花を咲かせ始めることになる。

2017年に入ると同時に音楽シーンに新風を吹かせるグループとして、マスコミにたびたび取り上げられたことで、急速にファン層を拡大していったのだ。

2018年の3月11日の早朝、酒井はブログにこんな文章を投稿していた。

純烈の目的と希望、その1つが客席で歌うこと。お客さんと握手すること。
握手した瞬間、演者もお客さんも垣根無しで、お互いが今を活き活きと、生きている同志‼️ エールだったり、励ましだったり、労いだったり、気持ちをスッと交換する。
つまり愛だね、これは。


キーワードにしていた「夢は紅白!親孝行!」の次に、彼らが目指すのはどこなのだろうか。



(注)本コラムは2018年3月11日に公開したものを、改訂した上で改題したものです。

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