「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the DAY

美空ひばりが15歳で初めてレコーディングしたジャズ・ソング「上海」はドリス・デイのカヴァー

2019.05.10

Pocket
LINEで送る



1945年に「センチメンタル・ジャーニー」の大ヒットを放って歌手として世に認められたドリス・デイは、次第に映画スターとしても活躍するようになり、それとともに円熟味を増していった。

スイング系のジャズ・ソングだった「上海」は、1952年に彼女がヒットさせた楽曲だった。




美空ひばりのSP盤の「上海」は1953年6月1日、タンゴの名曲「エル・チョクロ」の日本語カヴァーとカップリングで発売された。

このとき15歳になったばかりだった美空ひばりは、ワンコーラスを英語のままカヴァーし、後半に入ってからは日本語の歌詞でゴキゲンに唄いこなしている。
歌手としてのキャリアが十分だったドリス・デイに比べても、勝るとも劣らない出来栄えだった。

芸能に精通していた落語家の7代目立川談志が、昭和の歌謡曲を論じた著書でこう述べている。

「ひばり」のポピュラーソングというか、「英語の歌」とでもいうのか、上手い! いや、英語の発音は私にはわかりません。けど、ひばり、ちゃんとしてるんだ、家元判んなくても判るんだ。
『上海』を聴いたとき驚いた。上手いなあ! 上手い、うめえ、うめえ、もう一杯。
(立川 談志 著「談志絶唱 昭和の歌謡曲」大和書房)



美空ひばりが師匠にあたる歌手でボードビリアンの川田晴久と一緒にハワイとアメリカ西海岸で、本格的な公演を敢行したのは1950年の5月から6月にかけて約2ヶ月間のことだ。
それはレコード・デビューしてから2年目で、美空ひばりはまだこのとき13歳になったばかりだった。

太平洋戦争で殊勲をたてたハワイ出身の二世部隊、第百大隊の記念塔を建設するための基金を募集する目的で開催された興行は、日系人の多いハワイでは大成功を収めた。

それから二人はアメリカ本土に渡ってサクラメントを皮切りに、日系人が住んでいるカリフォルニア州の各地をコンサートで回ったのである。

ステージでは自分の持ち歌だった「悲しき口笛」と「河童(かっぱ)ブギウギ」のほか、笠置シヅ子の「ヘイヘイブギー」などを歌った。
またダイナ・ショアやボブ・ホープで有名な「ボタンとリボン」は英語でカヴァーし、ゆく先々で日系人だけでなくアメリカ人にも大喝采を受けた。

ただし、プロモーターが不慣れだった上に強行日程だったことからトラブルが多発し、文化や価値観が全く異なる国での気苦労は絶えなかった。

それでもロスアンゼルスではボブ・ホープやスペンサー・トレイシー、マーガレット・オブライエンといったハリウッド・スターと会ったり、ジャズのライオネル・ハンプトン楽団を観るなど、貴重な体験を重ねて凱旋帰国した。

若くして本場のエンターテインメントに直に触れて、その息吹を全身で吸収してきた成果は、帰国後の歌にはっきりと表れていくことになった。



ポップス調の「東京キッド」を筆頭に、ジャズとクラシックと民謡を組み合わせた「リンゴ追分」、最新流行だったマンボによる「お祭りマンボ」など、美空ひばりはどんなタイプの楽曲でも自由自在に、しかも伸び伸びと唄えるようになっていった。

それはジャズの本場であるアメリカのミュージシャンたちをバックにして歌ってきて、本場でジャズのグルーヴ感を身につけたことが大きく左右したのではないかと考えられる。

学校では決して教えてくれない社会勉強をしながら大人の世界で生きてきた美空ひばりが、幼い頃から天才歌手の名に恥じない名唱を残せたのは、こうした体験のなかであらゆる音楽に優劣をつけることなく、楽曲のエッセンスを素直に吸収しながら、自分の表現としての世界を作り上げていったからであった。


(注)本コラムは2017年4月3日に公開されました。

美空ひばり『上海』 [Single, Maxi]
日本コロムビア

美空ひばり『ジャズ&スタンダード』
コロムビアミュージックエンタテインメント

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the DAY]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ