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マレーネ・ディートリッヒを偲んで〜ナチスを嫌い、平和を願い、祖国を想い続けた大女優の歌声

2018.05.06

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1992年5月6日、マレーネ・ディートリヒ(享年90)はパリ8区にある自宅のベッドで静かに息を引き取った。
死因は肝臓と腎臓障害であったとされる。
亡くなる前の12年間はほぼ寝たきりだったという。
葬儀はフランス・パリのマドレーヌ寺院とドイツ・ベルリンの二カ所で行われ、彼女の亡骸は同年(本人の望み通り)故郷シェーネベルクで眠る母の墓の横に埋葬された。
その墓碑にはこんな言葉が刻まれている。

人生の思い出が刻まれた場所 
ここに私はいる マレーネ 1901-1992


1901年、彼女はドイツのベルリン郊外シェーネベルク生まれた。
本名、マリア・マグダレーナ・ディートリッヒ。
彼女が6歳の時にプロイセン王国近衛警察士官だった父が病死する。
ほどなくして母親は軍人と再婚するが…その夫も第1次世界大戦で戦死する。
母親は働きながら彼女と姉にフランス語を習わせるなどして教育に力を入れたという。当時、ヨーロッパは第1次世界大戦後の深刻な不況下にあった。
インフレが悪化し、人々の生活は苦しくなる一方だった。
不況にも関わらず、ベルリンの街にはキャバレー、カフェ、劇場が立ち並び、享楽的な雰囲気に包まれていたという。
1919年、18歳になった彼女は国立ヴァイマル音楽学校に入学し、ヴァイオリニストを目指すが…手首を痛めて音楽家の道を断念。
翌年、演劇に転向しマクス・ラインハルトの演劇学校に入学する。
1921年、在学中だった彼女は二十歳で映画デビューを果たすこととなるが…家計を助けるために、キャバレーや劇場での仕事を選ぶ。
女優を目指してオーディションとレビュー巡業を繰り返す“下積み時代”を送っている最中に、彼女は“マレーネ・ディートリッヒ”と名乗るようになる。
この芸名は、幼い頃から自分で決めていたものだという。
女優としてのキャリアを着実に重ねていた彼女は、1928年、母国ドイツで歌手デビューを果たしている。
1930年、28歳になった彼女はベルリンの舞台に立っていたところを映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグに認められ、ドイツ映画最初期のトーキー(映像と音声が同期した映画)作品『嘆きの天使』に出演し、世界的に注目を集める存在となる。
大きく弧を描く細い眉に象徴される個性的かつ退廃的な美貌と脚線美には、100万ドルの保険がかけられていたという逸話も残っている。
同年、彼女はアメリカのハリウッドへと進出し、人気俳優ゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でアカデミー主演女優賞にノミネートされるという快挙を遂げる。
1932年公開の映画『上海特急』での成功で、その人気を確たるものとする。
その翌年、彼女の母国ドイツではアドルフ・ヒトラーが首相の座につき、1934年に国家元首となる。



当時、アメリカに渡りトップ女優としてその名を世界に知らしめていたディートリヒに対して、ヒトラーは親近感を抱いていたという。
そしてヒトラーは彼女に帰国を要求する。

「私はドイツには帰りません。」


ナチスを嫌っていた彼女はその要求をキッパリと断り、アメリカ国籍を得るためにドイツの市民権を放棄する。
1939年(当時38歳)には正式にアメリカの市民権を取得する。
顔をつぶされた格好となったヒトラーは、ディートリヒが出演している多くの映画作品をドイツ国内で上映禁止とする。
ところが、彼女の“芯の強さ”は並ではなかった。
40代となった彼女は、第二次世界大戦が激化してゆく中、ヨーロッパ各地の前線でナチスドイツと戦う連合国兵士の慰問を積極的に行なう。
第二次世界大戦中はCIAの前身である情報調査局のために反ナチスドイツをテーマにしたアルバムを収録。
ヒトラーの差し金で母国ドイツでは“裏切り者”として指弾された彼女だったが、戦後、アメリカでは市民として最高の栄誉とされる大統領自由勲章を授与している。
フランスでも最高勲章の一つであるレジオンドヌール勲章を授与するなど、彼女のスター女優としての功績と影響力はとても大きいものだった。
そんな彼女も、50代を迎えた1950年以降は映画の仕事が減ったため、歌に軸足を移してアメリカやヨーロッパで歌手活動を展開するようになる。



ベトナム戦争の時には反戦歌「Where Have All the Flowers Gone(花はどこへ行った)」やボブ・ディランの「Blowin’ in the Wind(風に吹かれて)」を歌い、平和への願いと祈りを捧げた。
コンサート中に足を骨折してしまったことをきっかけに、彼女は74歳の時に引退を宣言する。
引退後も彼女へのファンレターは絶えなかったという。
それまで自らの出身地(ドイツのベルリン)について多くを語ることのない彼女だったが、1989年にベルリンの壁が崩壊した時にこんな言葉を残している。

「私は生粋のベルリンっ子よ!素晴らしいわ!私の街は自由よ!」


アメリカ国籍を取得しながらも晩年はパリで暮した彼女。
ナチスを嫌い、時代に翻弄されながらも…ドイツ人の誇りを捨てなかった彼女は、その生涯を通じて愛する祖国への想いを持ち続けていたという。

<参考文献『国境を越えて愛されたうた』竹村淳著/彩流社>


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