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ジョー・ダッサンを偲んで〜永遠のポップナンバー「オー・シャンゼリゼ」をヒットさせた男の足跡

2018.08.20

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1969年、日本のレコード会社(キング)が突如“歌うフランス人形”として売り出した金髪の女の子がいた。
モロッコ生まれのフランス人歌手ダニエル・ビダルが歌った「オー・シャンゼリゼ」(1971年)は、フォークミュージックが盛り上がりつつあった日本でスマッシュヒットを記録する。
もともとは1969年にニューヨーク生まれの歌手ジョー・ダッサンが歌ったバージョンが、欧米を中心に大ヒットしたものだった。
今日8月20日は、永遠のポップナンバー「オー・シャンゼリゼ(原題:Les Champs-Élysées)」を世界中に広めたジョー・ダッサン(享年41)の命日です。
同曲のヒットにより一躍人気者となった彼は、1979年に3度目となるオランピア劇場(フランスのパリ9区にある老舗ミュージックホール)でのコンサートを成功させる。
しかし、その年の12月に心臓疾患で緊急入院して手術を受ける。
翌1980年には三男が生まれたものの、その数週間後に二回目の離婚している。
彼は41年の生涯の中で、1966年に7歳年上の女性マリーセと、1978年に歌手クリスティン・デルボーと二度の結婚を経験している。
1980年の夏、彼は二人の息子(長男・次男)と実母と共に休暇を過ごすためにタヒチの別荘を訪れていた。
そして8月20日、家族とレストランで食事中に心臓発作に襲われて帰らぬ人となった。


1938年11月5日、彼はロシア系ユダヤ人の父とハンガリーにルーツを持つ母(バイオリン奏者)の長男としてニューヨークで生まれた。
当時、父親まだ売れない舞台役者だったが、その後ハリウッドの映画監督として頭角を現す存在となる。
1950年代に沸き起こったマッカーシズム(反共産主義に基づく社会運動)の影響で、映画界のブラックリストに載せられた父親はハリウッドを追放されてしまい、一家はパリで暮すこととなる。
その後、彼の父親(ジュールズ・ダッシン)は『男の争い』(1956年)でカンヌ国際映画祭の監督賞を受賞し、『日曜日はダメよ』(1960年)のヒットで大きな成功を手にする。
一家がパリに移住した後に、単身でスイスのインターナショナルスクールで教育を受けることとなった彼は、1956年に渡米してミシガン大学へ入学する。
しかし2年で中退してしまい、その後デトロイトのラジオ局でDJのアルバイトをするようになる。
その頃に親しくなったのが、フォークリバイバルの立役者で公民権運動の象徴だったピート・シーガーと、まだ無名時代のボブ・ディランだった。
二人に多大な影響を受けた彼は、やがて自らもギターを手にするようになる。
60年代初頭にパリへ戻った彼は、フランスの大手ラジオ局RTLのDJとして活躍する。
その後、歌手としてのチャンスを掴んだ彼はCBSレコード契約をする。
翌1965年に発表したデビュー曲「Je change un peu de vent」は、アメリカのトラッドフォーク「Freigth Train」のフランス語カヴァーだったが…結果は厳しく1800枚の売り上げで終わった。
1966年にリリースした「Bip Bip」のスマッシュヒットで一躍脚光を浴びた彼は、1967年に人気歌手サルヴァトーレ・アダモとのジョイントコンサートで注目を集め、さらに1969年にはフランス音楽界の殿堂オランピア劇場での初公演を成功させている。



それは1968年の出来事だった。
イギリスのロンドンにJason Crest(ジェイソン・クレスト)というバンドがいた。
サイケデリック路線で売り出そうとしてはいたものの…今ひとつ方向性を見出せないまま燻っていた。
当時、そんな“鳴かず飛ばず”のバンドのプロデューサーを担当していたのが、フリッツ・フライヤーという男だった。
彼は後にモーター・ヘッドなどのプロデューサーとして名を馳せた人物でもある。
ある日、フリッツはジェイソン・クレストの作曲能力に限界を感じ、かつて自分が在籍していたバンドThe Four Pennies(ザ・フォー・ペニーズ)のメンバーだったマイク・ウィルシュと、ミュージシャン仲間のマイク・ディーガンの二人に楽曲を発注した。
そこで出来上がってきた「Waterloo Road(ウォータールー通り)」という楽曲が、ジェイソン・クレストの4thシングルとして発表された。


この曲がイギリスでリリースされた当時、ジョー・ダッサンは仕事でロンドンに滞在していた。
彼は、たまたま耳にしたこの曲を気に入って、自分が歌うためにフランスのシャンソン作詞家ピエール・ドラノエに訳詞を発注した。
ピエールはロンドンの“ウォータールー通り”を舞台として書かれていた歌詞を、パリの“シャンゼリゼ通り”に差し換えて「オー・シャンゼリゼ」というタイトルをつけた。
1969年、そっくりそのままのメロディーにのせたフランス語歌詞でジョー・ダッサンが発表したところ、全仏でNo.1になる大ヒットを記録する。
「オー・シャンゼリゼ」は、彼のキャリアにとって最大のヒット曲となり、生涯に渡って“歌手ジョー・ダッサン”の人気を不動のものにした。

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