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KISSの武道館公演をNHKテレビの『ヤング・ミュージック・ショー』で見て感激した忌野清志郎の決断

2018.12.30

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高校生でバンドを作った1968年から活動をともにしてきたオリジナル・メンバーの破廉ケンチが、うつ病でギターが弾けなくなってメンバーから外れたのは、結成から10年目を迎えた1977年の夏だった。
そのためにRCサクセションはアコースティックのトリオからロック・バンドに変貌することを目指して、2年近い紆余曲折の期間を経たにもかかわらず、結成以来のメンバーが忌野清志郎と小林和生だけになってしまった。

ところがが1978年1月18日、カルメン・マキ&OZのギタリストだった春日博文が「屋根裏」のライブに前触れもなく、アンコールで乱入してきたことをきっかけに一気にメンツが揃っていく。
春日のステージングに目を見張った忌野清志郎は、終演後にバンドへの参加を要請している。
そして「ドラマーを変更すること」を条件に春日はギタリストとしてに参加し、忌野清志郎にはギターを弾かないでヴォーカルに専念することを提案した。

そこで忌野清志郎は自ら口説いて、前から注目していた新井田耕造をドラムに迎え入れた。
さらに、ずっと前から一緒にやろうと話していた古井戸の仲井戸麗市が、セカンド・ギターとして加わってきたのである。

こうして急速にバンドのメンバーが揃っていったのだが、いざ実際に音を出す前の段階でバンドのスタイルとイメージは、どの程度まで固まっていたのか?

実は忌野清志郎と仲井戸麗市に大きな刺激を与えていたのが、NHKの音楽番組『ヤング・ミュージック・ショー』の枠で1977年の年末にオンエアされたKISSの武道館ライブだった。



「ヤング・ミュージック・ショー」は1970年代から80年代にかけて放送されていたが、洋楽のアーティストのライブを観ることができる数少ないテレビ番組として、年に1、2回のオンエアで放送時間が不定期だったにもかかわらず、音楽好きの若者に強く支持されていた。
KISSの武道館公演は1977年5月7日にオンエアされたのに続いて、年末の12月30日に午後5時55分から午後6時4分の時間帯で再放送された。

1. DETROIT ROCK CITY
  デトロイト・ロック・シティ
2. LET ME GO ROCK’N ROLL
  レット・ミー・ゴー、ロックンロール
3. FIREHOUSE
  ファイアーハウス
4. MAKIN’LOVE
  果てしなきロック・ファイアー
5. COLD GIN
  コールド・ジン
6. NOTHIN’ TO LOSE
  ナッシング・トゥ・ルーズ
7. GOD OF THUNDER
  雷神
8. ROCK AND ROLL ALL NITE
  ロックン・ロール・オール・ナイト
9. BLACK DIAMOND
  ブラック・ダイアモンド

忌野清志郎はこの日、偶然にも仲井戸麗市と一緒にテレビでこのライブを観ていた。
そのことが翌年からのバンド活動に、大きな影響を与えていくのである。

「チャボの家でキッスの武道館コンサートをテレビで見てさ、感激したことがあったよ。これだ、と思ってさ。『これでいくべえ、リズムも分かりやすいや』なんて言ってさ。『これくらいなら弾けるだろう』なんて(笑)」


ポール・スタンレーの「俺たちはやるぜ、みんなが聞きたいすごいロックを!」といったMCや、観客とのコールアンドレスポンスにも触発されて、「これからはロックだ!」と決めたのである。
そこからあらためて、KISSとローリング・ストーンズを真剣に研究したという。

「サウンドも勿論だけど、内容をもっと俗っぽい女のことだとか車の話だとか、そういうものの方が、心情的なことや感覚的なこと歌ってるより全然分かりやすいと思ったんですよね」


こうして1978年の春には仲井戸麗市との共作による「雨上がりの夜空」が生まれたことで、バンドの柱となるロックの楽曲が出来上がっている。
それと同時に忌野清志郎は1963年に世界中でヒットした「上を向いて歩こう」が、実は日本が生んだロックンロールの名曲だったということに気づいて、それをロックのアレンジでカヴァーし始めた。

だから演奏の前にかならず、「日本の有名なロックンロール」と紹介するようになったのだ。

この2曲によってRCサクセションを取り巻く状況が変わって、本拠地にしていた渋谷のライブハウス「屋根裏」に若い観客が集まるようになった。


偶然だが「屋根裏」の共同経営者の一人だったのは、NHKの現役ディレクターで「ヤングミュージックショー」を担当する波田野紘一郎だった。

「ヤングミュージックショー」は波田野が海外から放送用に取り寄せたフィルムを、2インチのビデオにダビングして放送時間にあわせて編集したうえで、日本語字幕などを加えて番組化してオンエアしていた。
当時はビデオ・テープがきわめて高価だったので、オンエア後はすぐに消去して何度でも使い回していたので、マスターは基本的に残っていない。

しかし、波田野は気に入った作品を業務用のUマチックのビデオにダビングし、それを個人的に家に保存していたという。
だから「屋根裏」の共同経営者になったとき、そのうちのいくつかを店のテレビで自由に見ることができるようにした。
そのなかに、1975年8月にオンエアした「モンタレー・ポップ・フェスティバル」があって、いつも店に流れていたのである。


「モンタレー・ポップ・フェスティバル」におけるハイライトは、ジャニス・ジョップリンとオーティス・レディングだった。動くオーティスの映像を見て天啓を得た忌野清志郎が、その歌い方や動きなどを徹底的に研究して自分に取り入れることが出来たのは、「屋根裏」というライブハウスがあればこそであった。

波田野が後に、こう振り返っている。

75年の12月24日からスタートしました。情報誌もないから夜中に渋谷の電信柱にポスターを貼ってさ(笑)。
最初の出演者はルージュ。大晦日は頭脳警察の解散コンサート。「紅白に対抗するライヴ」とか銘打ってね(笑)。
売れない頃のRCサクセションも出たし、サザンオールスターズも昼の部に出たはずです。僕が離れたのは81年頃、赤字だらけでした。経済性を考えないで、理想を追いすぎた店でした。




<参考文献および引用元> 
忌野清志郎氏の言葉は「忌野清志郎1951ー2009 ROCKIN’ON JAPAN特別号」(ロッキング・オン)からの引用です。
また波田野紘一郎氏の言葉は、篠崎 弘 (著、監修)「洋楽マン列伝 1」 (ミュージック・マガジン )からの引用です。

篠崎弘 (著, 監修)『洋楽マン列伝 1』(単行本)
ミュージック・マガジン

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