「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the DAY

ローラ・ニーロを偲んで〜ニューヨークが生んだ孤高のシンガーソングライターの足跡と功績

2019.04.08

Pocket
LINEで送る

1997年4月8日、ニューヨークが生んだ孤高のシンガーソングライター、ローラ・ニーロ(享年49)が卵巣癌のためこの世を去った。
最期はコネチカット州ダンベリーの自宅で、息子ジルとデシデリオに見守られながら息を引き取ったという。

1947年10月18日、彼女はニューヨークのブロンクスで生まれる。
ブロンクスといえば、ニューヨークを代表する下町であり、黒人、ヒスパニック、白人がひしめき合う街。
彼女が生まれ育ったその街では、R&B、ジャズ、ドゥーワップなどの黒人音楽はもとより、ヒスパニック系のラテンサウンドが街中に溢れていた。
父親はピアノの調律師をしながら、ジャズトランペッターとしても活躍していた。
クラシック愛好家だった母親は、簿記係の仕事をしながら共働きで子育てをしていた。
彼女の家系はロシア系ユダヤ人、ポーランド系ユダヤ人、イタリア系という複雑な血筋を引いている。
両親の影響で、彼女は幼い頃から音楽に親しむ。
ジャズやゴスペルをベースに、アメリカのソウルやR&Bシーンに多大な影響を残したカーティス・メイフィールド、ブルー・アイド・ソウルの女王ダスティ・スプリングフィールドなどの影響を強く受けて育ったという。
14歳の時に、近所のプエルトリコ人の少年達とドゥ・ワップのグループを結成し、ストリートで歌い始める。
ハイスクール時代にはニーナ・シモンやマーサ&ザ・ヴァンデラスなどの黒人音楽、そしてボブ・ディランなどのフォークに傾倒し、この頃からソングライティングも始めている。
卒業後、自作曲を持ってレコード会社への売り込みを始める。
1966年、19歳になった彼女はフォーク・ウェイズ・レーベルと契約を結び、ピーター・ポール&マリーに自作の曲「And When I Die」を提供し、音楽家としてのキャリアをスタートさせる。


同年にソロ名義でのシングル「Wedding Bell Blues」をリリースするが、売り上げは芳しいものではなかった。
翌1967年には、1stアルバム『More Than a New Discovery』を発表し、モンタレーポップフェスティバルに出演するも、レコード会社の期待に応えられる売り上げにはならなかったという。


彼女のデビュー曲となったこの「Wedding Bell Blues」は、後にフィフス・ディメンションがカヴァーして全米1位を獲得する。
またピーター・ポール&マリーに提供した「And When I Die」は、後にブラッド・スウェット・アンド・ティアーズがカヴァーして全米2位を獲得している。



1968年には、2ndアルバム『Eli and the Thirteenth Confession(イーライと13番目の懺悔)』をリリース。
同作から再びフィフス・ディメンションが「Stoned Soul Picnic」をカヴァーし、全米チャート3位を記録。
また同作から人気グループ、スリー・ドッグ・ナイトが「Eli’s Comin’」をカヴァーし、全米10位を獲得。
これらのヒットを受けて、ローラ・ニーロの名前はますます知られるようになる。



以降も、アルバムを発表する度に様々な人気アーティストたちが彼女の曲をカヴァーし、ヒットチャートの上位を獲得し続けることとなる。
1960年代の終わり頃と言えば、アメリカを中心に数多くの優秀なシンガーソングライターたちが登場した時代。
ジェイムス・テイラーやキャロル・キング、ジョニ・ミッチェルなど才能溢れるアーティストたちが頭角をあらわし始め、彼らの多くはその後70年代のアメリカを代表するスターになってゆく。
そんな中、彼女は優れた作詞作曲のセンスと、ソウルフルな歌声、そして美しい美貌を持ち合わせながらも、スター歌手になることはなかった。
彼女の曲は、フォークともジャズともロックともソウルともゴスペルともいえない独特の雰囲気を放っている。
叫ぶように、語り掛けるように歌う、彼女の歌唱法も独特だった。
1971年、彼女(当時24歳)は結婚と同時に全曲R&Bのカヴァーによる5thアルバム『Gonna Take a Miracle』を発表して(夫の希望により)引退を表明する。
後に出産を経験した彼女は、5年間のブランクを経て1976年にジャズ的な要素を取り入れた6thアルバム『Smile』で復帰を果たす。
1978年以後は、およそ5年に1枚のペースでアルバムを発表していった。
夫と離婚したのち、1980年代の初めから画家のマリア・デシデリオと暮らし始める。
30代、40代とニューヨーク市からは約70マイル離れたコネチカット州のダンベリーという街で暮らしながら、マイペースに音楽活動を続けていた。
晩年は闘病生活を送りながら、彼女はいつも地球の未来、環境破壊の問題を気にしていたという。

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the DAY]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ