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ジェリー・ロール・モートン〜草創期のジャズに大きな影響を及ぼした男の足跡と功績

2021.07.10

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1941年7月10日、草創期のジャズに大きな影響を及ぼしたピアニスト/作曲家、ジェリー・ロール・モートン(享年50)がロサンゼルスで死去した。
死の数年前にワシントンD.C.の酒場で喧嘩になり、ナイフで刺されて頭と胸に重負った彼は、その出来事以来、病気がちになりすぐに息切れしたりするようになっていたという。
一説では死因を心臓病や喘息による呼吸困難としているが、真相は謎のままである。
その死から57年後…1998年に『海の上のピアニスト』という映画が上映された。
本作は『ニューシネマ・パラダイス』(1988年)で注目を浴び、一躍イタリアを代表する映画監督となったジュゼッペ・トルナトーレが手がけたもの。
豪華客船の中で産み捨てられた男の子が、船員たちによって船上で育てられ、やがて船のサロンでピアノ弾きとして名声を得るという寓話的内容の映画だ。
トルナトーレ監督は、“ジャズを生んだ伝説的なピアニスト”としてジェリー・ロール・モートンを(本人の名前で)登場させた。


1890年10月20日、彼はルイジアナ州にあるガルフポートという街で生まれた。
父親は建築業を営む裕福なフランス人の血をひくクレオール(フランス人と黒人奴隷の混血)だった。
同州最大の都市ニューオーリンズは1718年から1722年までフランスに統治されていた。
1763年、パリ条約によりルイジアナ州はスペイン領となるが、ニューオーリンズの街ではフランス系住民が多く宗主国スペインの影響はほとんど見られなかった。
1801年、ナポレオン皇帝がルイジアナ州をフランスに返還させたが、財政上の必要から1803年にはアメリカ合衆国に売却する。
そんな歴史背景もあってこの地方にはフランス系、スペイン系、イギリス系、アフリカ系など多くの人種がいて、多種多様の文化・音楽が混在していた。
クレオールは黒人奴隷との混血とはいえ比較的裕福な生活をしていた人が多く、当時、ヨーロッパに留学して教育を受けていた者もいたという。
奴隷解放令後には黒人の地位も上がり、逆にクレオール達は利権を失った白人の腹いせに差別されるようになる。
もともと高い文化的教育を受け音楽的素養のあったクレオール達は、工場勤務などの余暇にブラスバンドを組んで街の飲食店やダンスホールで演奏するようになる。
黒人のリズム感覚とヨーロッパの白人文化から入ってきた楽器の音色から奏でられるクレオールのブラスバンドは独特の音楽を作り出し、これがジャズの源流となったという説もある。
そんな時代・地域で生まれた彼は、家庭崩壊、両親の離婚、祖母との暮らし、母親の再婚など、複雑な家庭環境の中で幼少期を過ごした。
彼が最初に手にとった楽器はギターだった。
6歳の頃からスペイン人の音楽教師に演奏方法を教わり、7歳の頃にはかなりの腕前になり、近所の子供たちとバンドを結成していたという。
幼いながらに音楽的な才能を見せ始め、14歳で売春小屋のピアニストとしてプロキャリアをスタートさせる。

「私が売春街でジャズを演奏していることを知るやいな祖母は“家族の名誉を汚すようなヤツはアタシの家から出て行け!”と言って私を家から追い出した。“悪魔の音楽はお前を地獄に落とすだろうさ”とね。だけど私は音楽を諦めることができなかった。」


地元では名の知れたピアニストとなった彼は、その後、長い放浪生活に入る。
一部の資料によると1908年(当時18歳)頃にはメンフィスで“ブルースの父”と呼ばれた男ウィリアム・クリストファー・ハンディとバンドをやっていたという記録も残っている。
ストライドピアノの確立に大きな役割を果たし”ストライドの父”と呼ばれた男ジェームス・P・ジョンソンの証言によると、彼は26歳を迎えた1911年にはニューヨークで演奏していたという。
その後、1912年からはシカゴやセントルイスで活動していたという足跡も残っている。
1915年には(一説では史上初と言われている)ジャズ楽曲「Jelly Morton Blues」をシートミュージックとして出版している。
1917年(当27時歳)からロサンゼルスを中心に5年間活動した後、1922年からはシカゴに定住して自身のバンド“レッド・ホット・ペッパーズ”を結成する。
1926年(当時36歳)にはアメリカ最大のレコード会社のひとつであるビクターと契約を交わす。



彼がビクターで行った一連の録音は1920年代のジャズを代表する貴重な作品集として知られている。
その後、ニューヨークに拠点を移し引き続きビクターのために録音を続けていたが、1929年に起こった世界大恐慌が彼の音楽活動にも暗雲をもたらすこととなる。
長引く不況によりレコード会社の経営も傾き、1931年にはレコード契約を打ち切られてしまう。
1935年、45歳になった彼はワシントンDCへと移りナイトクラブで演奏するようになる。
そこで彼は、店のマネージャー、ショーの司会者、用心棒、バーテンダーも兼務していたという。
ちょうどその頃、民俗学者アラン・ローマックスが彼の存在に興味を持ち、その演奏とインタビューを録音することを試みる。
米国議会図書館に保管されていたその音源は、ジャズ音楽史の歴史的資料として貴重なものとなり、後にグラミー賞を受賞することとなる。
ワシントンDCのナイトクラブを切り盛りする日々を過ごす中、ある晩、オーナーの友人と暴力沙汰を起こし、頭と胸に重傷を負うこととなる。
しだいに店も経営不振となり…彼は仕事をやり直す計画をして、新曲と新しい編曲とを手書きした一式を持ってロサンゼルスに引っ越す。
ところが、彼は到着して間もなく深刻な病気にかかってしまい…1941年7月10日、50年間の人生に終止符を打つ。
自己顕示欲が強く、自分の名刺に「私がジャズの創始者である」と書いていたという彼。
その優れた作曲能力とピアノ演奏は、現在も多くのジャズメンたちに影響を与え続けている。


【佐々木モトアキ プロフィール】
https://ameblo.jp/sasakimotoaki/entry-12648985123.html

【TAP the POP佐々木モトアキ執筆記事】
http://www.tapthepop.net/author/sasaki




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