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バド・パウエルを偲んで〜モダンジャズのピアノスタイルを確立した天才奏者の光と影

2019.07.31

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1966年7月31日、モダンジャズのピアノスタイルを確立した天才奏者バド・パウエル(享年41)がニューヨーク市内の病院にて死去した。
死因は結核、栄養失調、アルコール中毒とされている。
彼はチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーらが生み出したビバップスタイルのジャズをピアノの分野に定着させ、ピアノ、ベース、ドラムスによる“ピアノトリオ形式”を創始した人物として知られている。


1924年9月27日、彼はニューヨークで生まれた。
祖父はフラメンコギタリストで、父はストライドピアニスト、兄はトランペット奏者という音楽一家で育った彼は6歳からピアノを習いクラシックを学んでいたという。
モーツァルトに夢中だったバド少年は、ジャズに傾倒し始めたことをきっかけに15歳でハイスクールを中退し、兄のバンドと共に小さなクラブなどで演奏活動を始める。
二十代を迎えた1940年代の半ばに頃になると、ニューヨークの52丁目あたりでは誰もが彼のことを天才と認めるようになっていた。
1947年と1953年録音の初リーダー作『Bud Powell Trio(バド・パウエルの芸術)』は、モダンジャズ史における歴史的な傑作として知られている。
ある日、彼はニューヨークにあるモダンジャズの発祥の店ミントンズ・プレイハウスで(後に特別な親友となる)セロニアス・モンクと出会う。
そこで彼はモンクから音楽理論を学んだと言われている。


それは1945年の出来事だった。
モンクはビバップジャズドラマーの先駆者の一人として知られるマックス・ローチと共に数日間に渡るコンサートを開催した。
ペンシルベニア州フィラデルフィアで行なわれたそのステージは、戦中にも関わらず連日大いに盛り上がったという。
そんな中、彼にとって忘れることのできない事件が起きる。
ある夜の終演後…ミュージシャンたちが楽器をケースに仕舞っている時に警官たちがクラブになだれ込んできてモンクの行方を捜した。
モンクは証明書(アメリカの劇場・飲食店での営業演奏を許可するキャバレーカード)の提示を拒んだので、その場で拘束されてしまう。
その様子を見ていたバド・パウエルが会場の戸口を塞いで警官たちに向かって食いかかった。

「よせ!あんたたちは間違ったことをしている!あんたたちは世界で一番偉大なピアニストを虐待しているんだぞ!」


次の瞬間、バドの頭に勢いよく警棒が振り降ろされた。
警官達に手首を掴まれたままモンクとバドは連行され、そのまま留置所に放り込まれた。
モンクにかけられていた容疑は麻薬の不法所持だった。
しかし彼に麻薬癖はなく…後の調べでは不当逮捕・冤罪だったという説もある。
この事件によってモンクはキャバレーカードを没収されてしまう。
この不当な逮捕による留置場収容から釈放された直後、パウエルは頭痛を訴え始める。
病院で診察を受け、それからの3ヶ月間を病室のベッドで過ごすことになった。
そこで彼は様々な精神活性薬物を投与されショック療法も受けたという。

「もしパウエルがそこに介入してくれなかったら、自分だって同じような目に遭わされていただろう。」


モンクは、この不運に見舞われた親友のために「イン・ウォークト・バド」「52番街のテーマ」「ブロードウェイのテーマ」という曲を書いた。



パウエルの芸術家としてのキャリアはまだ始まったばかりだったが、この事件を境に彼は終生、精神的な疾患に悩まされることになったのだ。
50年代中期以降は、心の苦しみから逃れるように麻薬やアルコールに溺れるようになる。
1960年代初頭、アメリカではジャズ不況が訪れ…多くのジャズメンがヨーロッパに活動の場を移すようになる。
パウエルもこの時期に仕事を求めてパリに渡ることとなる。
良き仲間の献身的な助けもあり、どうにか麻薬やアルコール中毒を克服し、パリでの音楽活動を通じてかつての輝きを取り戻してゆく彼だったが…すでに身体はボロボロの状態だったという。
そして1966年、ニューヨークに戻って数ヶ月後に彼はこの世を去る。
映画監督のベルトラン・タヴェルニエは、パリ時代のパウエルの演奏活動のエピソードを元に、映画『ラウンド・ミッドナイト』(1986年公開)を制作している。


<引用元・参考文献『セロニアス・モンクのいた風景』編者・訳者/村上春樹(新潮社)>

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