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TAP the POP

TAP the ERA 1989-2019

平成を象徴する音楽家・椎名林檎が登場して日本語の歌に革新をもたらした1998年から99年

2018.05.25

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昭和元年と昭和64年は、ともに正味が7日間しかなかった。
したがって昭和という時代は昭和2年から昭和63年まで、西暦にすれば1927年から1988年までの約62年間であった。
それを半分に割ると前半が1927年から1957年まで、後半が1958年から1988年までの31年間となる。

それぞれの31年をポピュラー・ミュージック(大衆音楽)という視点から見ていくと、戦前から戦後復興にかけての昭和・前半は「流行歌」の時代といえる。
そして高度成長期からバブルが弾けるまでの昭和・後半は、ロックやフォークの影響を受けるなかで「歌謡曲」が全盛を迎える時代となった。

偶然なのか、はたまた必然なのか、1989年に始まった平成も2019年4月末日までなので31年間となる。
平成に入ると「歌謡曲」のなかのポップスが「J-POP」に受け継がれて呼称も代わり、コンピューターを使った音楽作りの比重が増えるなかで、レコードやテープからCDやインターネットでのダウンロード、ストリーミングと、音楽を伝達するメディアも大きく変化して現在に至っている。

平成を象徴する音楽家になる椎名林檎がシングル「幸福論」で音楽シーンに登場してきたのは、平成という時代が10年目を迎えた1998年のことだった。


椎名林檎の革新性はなによりもまず、斬新かつ大胆な楽曲を作るソングライターだというところにある。
しかもそれを自ら歌で表現できるシンガーであり、アレンジや打ち込みもできるミュージシャンであり、したがって自分をプロデュースできるアーティストでもあった。

「幸福論」は歌の歌詞という常識をくつがえす散文スタイルで、ポップスでは滅多に使われない「哲学」などという単語も出てくる。

歌謡曲的な物語性が注目されたセカンド・シングルの「歌舞伎町の女王」を経て、サード・シングルの「ここでキスして。」がヒットして椎名林檎は脚光を浴びた。
続いて1999年2月にデビュー・アルバム『無罪モラトリアム』がリリースされると、本格的にブレイクしてベストセラーとなり、新しい表現者として世に受け入れられていく。



昭和・前半の「流行歌」の時代に、女性のソングライターはほぼ皆無であった。
昭和・後半の「歌謡曲」の時代になってようやく、岩谷時子や安井かずみといった女性の作詞家が活躍し始めて、活躍への道がひらけていった。

それに続いたのが加藤登紀子、松任谷(荒井)由実、中島みゆきといった女性のシンガー・ソングライターたちであった。
彼女たちは成長していくにつれてプロデュースの領域にまで進出し、アーティストと呼ばれるようになった。

いずれも自分の作品を書いて歌うだけではなく、他者に作品を提供することでソングライターとしても実績を上げている。
そうした先駆者たちの歩みの延長線上に、忽然と現れたのが19歳の椎名林檎である。

それまでの日本の歌の概念には収まらない大胆な楽曲を作り、自らの音楽でそれらを表現するという意味で、彼女は最初からアーティストだった。

その年の9月22日に発売された『Dear Yuming〜荒井由実/松任谷由実カバー・コレクション〜』では、荒井由実時代の「翳りゆく部屋」をカヴァーしている。



椎名林檎が活躍するのと時を同じくして、15歳のシンガー・ソングライターである宇多田ヒカルがデビューし、ファースト・アルバム『First Love』が空前の売上を記録する。
日本の音楽シーンは1998年から99年にかけて、年若い2人の女性が才能を開花させたことで、新たな時代へと突入していったのだ。




椎名林檎トリビュートアルバム『アダムとイヴの林檎』
Universal

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