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「帰ってきたヨッパライ」という”変な歌”で登場した音楽界の革命児、ザ・フォーク・クルセダーズ

2014.11.27

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1960年代の後半から70年代にかけて、ラジオは若者たちにサブカルチャーを発見して紹介する役割を果たした。テレビは一家に一台くらいまで普及していたが、音楽に興味がある少年少女や若者たちはみんなトランジスタ・ラジオを聴いていた。

忌野清志郎が「トランジスタ・ラジオ」の歌詞に書いた通り、心のアンテナさえ感度が良ければ、小さなラジオは世界中からのメッセージをキャッチ出来たのだ。

ベイ・エリアから リバプールから
このアンテナが キャッチしたナンバー
彼女 教科書 ひろげてるとき
ホットなメッセージ 空にとけてった
(作詞作曲・忌野清志郎 歌・RCサクセション)


アメリカ西海岸のベイエリアの南で歴史的なモントルー・ポップ・フェスティバルが開催され、オーティス・レディングとジャニス・ジョプリンがスターダムを駆け上がったのは1967年の6月だった。

それから半年後、モンキーズのゴキゲンなナンバー、「デイ・ドリーム」が全米チャートの1位を快走していた12月10日、オーティスが飛行機が墜落する事故で亡くなったという衝撃的なニュースが飛び込んできた。

ちょうどその時、関西のラジオ局を経由してあっという間に日本中へ広まったのが、交通事故で死んだ男が天国を追い出されて戻ってくる歌、ザ・フォーククルセイダーズの「帰って来たヨッパライ」である。

天国よいとこ一度はおいで
酒はうまいしねえちゃんはきれいだ
ワー ワー ワッワー
おらが死んだのはよっぱらい運転で
「アレーッ!」
おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ 天国に行っただ
(作詞・ザ・フォーク・パロディ・ギャング  作曲・加藤和彦 歌・ザ・フォーク・クルセダーズ)


京都の大学生だった加藤和彦や北山修を中心に結成されたザ・フォーク・クルセダーズは、1965年から2年ほど活動していたがメンバーが就職活動するなどの事情から解散することになった。
最後のライブとなった10月25日に開かれる第1回「フォーク・キャンプ・コンサート」で、北山の提案によって活動の総決算として作った自主制作盤、アルバム『ハレンチ』が販売された。

ところがレコードは50枚ほどしか売れず、北山修が宣伝のために放送局に持ち込んだことから、「帰って来たヨッパライ」と「イムジン河」が発見されることになる。

京都のKBSは「イムジン河」を流して好反響を得ていたが、兵庫の関西ラジオで「帰って来たヨッパライ」がセンセーションを巻き起こしたのだ。

リスナーからのリクエストはがきが殺到した「帰って来たヨッパライ」は、11月に電話リクエストの番組で1位になり、関西圏のラジオからは頻繁に流れ始めた。



関西だけで流行っている”変な歌”の話を耳にしたニッポン放送の高崎一郎が、これを手に入れて「オールナイトニッポン」でオンエアすると、爆発的な反響があって関西ローカルとはケタ違いの影響力で全国にまで広まった。

設立されて間もないニッポン放送の子会社である音楽出版社、PMPで専務を兼任していた高崎はいち早く新入社員を関西に派遣し、楽曲の原盤権に関する契約を結ばせた。

その新入社員こそはジャックスや大滝詠一、山下達郎といった認められにくい新しい才能に注目して、さまざまな面からサポートすることで日本の音楽シーンの発展に貢献するミュージックマン、朝妻一郎だった。

同じ頃、レコードを聴いて即座に反応したのが新興楽譜出版社の草野昌一、かつて漣健児のペンネームで数多の訳詞を手がけて一世を風靡した人物だ。

その頃の草野はグループ・サウンズやフォーク・ソングの原盤制作に乗り出して、マイク真木の「バラが咲いた」やブロードサイド・フォーの「若者たち」などのフォークソングや、ザ・スパイダーズの「夕陽が泣いている」などGSのヒット曲でも成功を収めて、音楽ビジネスの最先端で活躍するミュージックマンだった。

238c2be2bdc1f46432fd382b103515b7スパイダーす 夕陽が泣いている

1969年に創刊される音楽雑誌「ヤング・ギター」の編集長となる山本隆士によると、草野はわずかなタッチの差で朝妻に宝物をさらわれる形になったらしい。
というのも新興楽譜出版社の音楽誌、「ミュージック・ライフ」の編集長だった水上はるこが、第1回「フォーク・キャンプ・コンサート」に行き、フォーク・クルセダーズの数少ないアルバムを手に入れた一人だったからだ。

ミュージックライフの編集部の隣の試聴室のドアをばぁーっと開けて「こんなの買ってきたんだ、聴こうよ」って。
で、聴いたら、その曲が「帰ってきたヨッパライ」だったんだよ。
それを草野さんが嗅ぎつけて来て、「何だこれ?これ面白い!これだ!」って言って。(注)


草野はすぐに社員を京都に送り込んだが、時すでに遅し、音楽出版と原盤の権利はそれぞれに確定していた。その時、草野は心の底から悔しがったという。

12月25日に東芝レコードから発売された「帰って来たヨッパライ」は、予想をはるかに上回る爆発的なヒットとなり、売上枚数はすぐに100万枚を超えた。まさに驚異的な大ヒットを打ち立てたのだった。


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交通事故で死んだヨッパライが「♪オラは死んじまっただー」と唄うナンセンスなコミックソングには、どこかに社会風刺のエッセンスが込められていた。
それをテープ再生で作られたおかしな声で表現するアイデアには、誰にも考えつかないイマジネーションがあった。
しかも、最後にビートルズの「A Hard Day’s Night」をお経にして歌うセンスも光っていた。

それらを含めて、「帰って来たヨッパライ」は新しい時代の到来を告げる〝変な歌〟であった。

社会現象を起こすほど大きな話題を呼んだザ・フォーククルセイダースは、加藤と北山との話し合いから急遽、はしだのりひこを新メンバーに加えて1年間だけの活動という約束で、メジャー・デビューを果たすことにした。

そして彼らが偶然にコミックソングでヒットを当てたのではなく、フォークとロックが主導する新しい音楽の時代の革命児だったことが、音楽家・加藤和彦のその後の活躍によって次第に明らかになっていく。

「帰って来たヨッパライ」を作った時から、加藤はすでにベイエリアやリバプールと音楽的に共振していたのである。

(注)引用元 「何かが終わって、また新しいものが始まるんだ」山本隆士インタビューby松永良平 http://park1.wakwak.com/~hi-fi/20c04.html

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