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シャイな好青年だった高倉健はいつから寡黙で厳しい表情のストイックな男になったのか

2023.11.09

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スクリーンで演じた役のイメージがそうだったように、孤独の影をまとう男という生き方を貫いた高倉健は、私生活をまったく垣間見せないスターとして有名だった。

しかし訃報を聞いた美術家の横尾忠則氏は、世間的なイメージ以上に「もっとよく話す人だった。そして細かいところに気配りのできる繊細な人でした」と語っていた。

60年代の終わりごろ、ひと目お会いしたくて、つてを頼って、東京・赤坂のホテルで待ち合わせをしました。私の姿を見るなり、直立不動。そして深々とお辞儀をして下さいました。この印象は、その後もずっと変わりませんでした。


初めて出会って意気投合した横尾氏は健さんの写真集を作り、主演した映画のポスターやレコードジャケットをデザインしている。

高倉健がジャズ・シンガーだった頃の江利チエミと結婚していた1960年代の前半、作曲家の中村八大のお供で自宅に呼ばれて一緒にスキ焼きをごちそうになった桑島滉は、家庭人として料理に腕をふるっていた高倉健の明るい笑顔が、今でも印象に残っているという。
桑島はその頃、中村八大の運転手兼マネージャーだったが、1966年に渡米してロスアンゼルスで音楽プロデューサーとして活躍した人物だ。

確かに美空ひばり主演の映画『べらんめえ芸者』シリーズなどでは、背広姿でサラリーマン役に扮した高倉健が照れ屋だが、真っ直ぐな気性の明るい好青年を演じていた。
それがややぎこちないところも自然で、好感が持てる要素だった。

ではシャイな好青年だった高倉健はいつから、寡黙で厳しい表情のストイックな男になったのか。

f0426べらんめい芸者 ポスター DVD


1956年に東映にニューフェースとして入社した高倉健は、最初から映画『電光空手打ち』で主演に抜擢されてデビューを飾っている。
だが、それからの5年間で60本以上もの作品に出演したにもかかわらず、代表作やヒット作と呼べる作品は生まれなかった。

京都撮影所で作られる時代劇中心に回っていた東映にあって、東京撮影所で製作される現代ものの作品は傍流にすぎない。
高倉健は二枚目俳優ではあっても、まだスターとまではいえないという微妙な存在だった。

しかし1963年に東京オリンピックに向けて開通する予定の東海道新幹線にあやかって、”東映新幹線”なるヤクザ映画路線が敷かれることになって道がひらけた。
そして『花と嵐とギャング』や『暗黒街最後の日』などのギャングスターもので注目されて、いよいよアクション・スター”健さん”の時代が幕を開ける。

初めて任侠道を生きる侠客を演じた映画『暴力街』では、関東彫りの名人と言われた白石政美の手で、高倉健の全身に”不動明王火焔太鼓”の刺青が描かれた。
もちろん特殊な顔料を使った絵だったが、撮影期間の1か月は風呂に入っても落ちないという優れものだ。
これを境に高倉健は眼光が鋭くなり、常に役柄を意識して自宅でも口数が減っていったという。

そして次作の『人生劇場 飛車角』がヒットしたことから、東映は任侠映画やヤクザ映画を量産する方向へと大きく舵を切り、高倉健が脚光を浴びていく。

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続いて1965年から始まった「網走番外地」シリーズで人気が爆発した高倉健は、さらに「日本侠客伝」と「昭和残侠伝」に主演したことで、東映やくざ映画におけるドル箱シリーズを誕生させたのである。
これによって”健さん”は日本で最も集客力がある映画スターになり、男性ファンから熱狂的な支持を集めるようになっていった。

しかし英語が得意で読書家の自分とは相容れないアウトローになりきるために、高倉健は撮影の期間はいつも現実の社会から自らを遮断していた。
ヤクザや刑務所の囚人といった役柄に徹していくなかで、高倉健は家庭生活との両立に苦労しながら、幸福感を排除する努力をするようになっていく。

真冬の北海道で「網走番外地」シリーズの長期ロケが敢行された時は、夫人の江利チエミがに松阪牛の差し入れを持って訪れるのが常だった。
しかしある時期からそれを止められたという。

嬉しいな。けど、困るんだ。
みんな、家族と離れて、寒さと闘いながらの仕事なんだ。



やがて目的地を誰にも伝えず、ひとりで禅寺に篭ったり、海外を旅してまわるようになる。

俳優は脚本に書かれた人物に扮して、台詞や動き、身振りや表情を使って、全身でその人物を演じねばならない。
俳優とは文字通り、「人に非ずして人を憂う」仕事なのである。

ただし正義感が強く生真面目だった高倉健には、東映の幹部に言われるまま暴力を肯定するかのようなヤクザ映画ばかりに出演していることに対して、それなりに含むところがあった。

そして1976年に引退覚悟で東映を退社してフリーになり、日本だけでなく世界に知られる俳優として活躍し始めるのである。


(注)横尾忠則氏のコメントは、朝日新聞2014年11月19日朝刊「日本中が、背中で泣いています 高倉健さんを悼む 美術家・横尾忠則」からの引用です。また高倉健の発言は、藤原佑好・著「江利チエミ 波乱の生涯―テネシー・ワルツが聴こえる」(五月書房)からの引用です。本コラムは2015年11月10日に公開されました。


横尾忠則『憂魂、高倉健』(単行本)
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『高倉健 ベスト』
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