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シャイで明るい好青年だった高倉健は、いつから寡黙でストイックな男になったのか

2015.11.10

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スクリーンで演じた役のイメージがそうだったように、孤独の影をまとう男という生き方を貫いた高倉健は、私生活を垣間見せない俳優でも有名だった。

訃報を聞いた美術家の横尾忠則さんは、世間的なイメージ以上に健さんは「もっとよく話す人だった。そして細かいところに気配りのできる繊細な人でした」と語っている。(注1)

60年代の終わりごろ、ひと目お会いしたくて、つてを頼って、東京・赤坂のホテルで待ち合わせをしました。私の姿を見るなり、直立不動。そして深々とお辞儀をして下さいました。この印象は、その後もずっと変わりませんでした。

初めて出会って意気投合した横尾さんは健さんの写真集を作り、主演した映画のポスターやレコードジャケットをデザインした。

yb027高倉健 横尾忠則

1966年に渡米してロスアンゼルスで音楽プロデューサーとして活躍した桑島滉さんは、ジャズ・シンガーの江利チエミさんと健さんが結婚していた当時、作曲家の中村八大さんのお供で自宅に呼ばれてすき焼きをごちそうになったことがあった。
自ら腕をふるう健さんの笑顔は今も印象に残っているという。

確かにその頃は、例えば美空ひばり主演の映画『べらんめえ芸者』シリーズを観ても、背広姿でサラリーマン役に扮した健さんは、照れ屋ではあっても真っ直ぐな気性の明るい好青年を演じていた。

それが自然だった。
ではシャイな好青年の健さんは、いつから寡黙で厳しい表情のストイックな男になったのか。

f0426べらんめい芸者 ポスター DVD

1956年に東映にニューフェースとして入社した健さんは、映画『電光空手打ち』の主演に抜擢されてデビューを飾った。だが、それからの5年間で60本以上もの作品に出演したのに、代表作やヒット作と呼べる作品はなかった。

京都撮影所で作られる時代劇中心に回っていた東映にあって、東京撮影所の現代ものは傍流にすぎない。健さんは二枚目俳優ではあっても、スターとまではいえない存在だった。

しかし1963年に東京オリンピックに向けて開通する予定の東海道新幹線にあやかって、”東映新幹線”なるヤクザ映画路線が敷かれると、『花と嵐とギャング』や『暗黒街最後の日』などのギャングスター映画で注目されつつあった健さんの時代が、いよいよ幕を開ける。

映画『暴力街』で初めて任侠道を生きる侠客を演じる健さんの全身には、関東彫りの名人と言われた白石政美の手で”不動明王火焔太鼓”の刺青が描かれた。
もちろん特殊な顔料を使った絵だったが、撮影期間の1か月は風呂に入っても落ちないという優れものだった。

これを境に健さんは眼光が鋭くなり、自宅でも口数が減って常に役柄を意識するようになっていく。

4a5016c4d0dd1463db15178ed258d3fb人生劇場飛車角

次作の『人生劇場 飛車角』がヒットしたことから、東映は任侠映画やヤクザ映画を量産する方向に大きく舵を切った。

翌年から始まった「網走番外地」シリーズで人気が爆発した健さんは、続く「日本侠客伝」と「昭和残侠伝」という、東映やくざ映画のドル箱シリーズを誕生させる。
これによって日本で最も集客力があるスターになった。

だが正義感が強く生真面目だった健さんは、暴力を肯定するかのようなヤクザ映画ばかりに出演していることに、いささか含むところがあった。

というのも英語が得意で読書家、酒も嗜まない健さんは本来の自分とは相容れないアウトローになりきるために、撮影期間は現実の社会から自らを遮断していたのだ。

俳優としてその葛藤に苦労していくなかで、ヤクザや刑務所の囚人といった役柄に徹するために、健さんは私生活から幸福感を排除する努力をするようにもなった。

やがて目的地を誰にも伝えずに禅寺に篭ったり、海外を独りで旅して回るのも常となるのだ。

真冬の北海道で「網走番外地」シリーズの長期ロケが敢行された時、夫人の江利チエミがいつものように松阪牛の差し入れを持って行くと電話を入れると、それを止められたことがあった。(注2)

嬉しいな。けど、困るんだ。
みんな、家族と離れて、寒さと闘いながらの仕事なんだ。


俳優は脚本に書かれた人物に扮して、台詞や動き、身振りや表情を使って、全身でその人物を演じねばならない。
文字通り俳優とは、「人に非ずして人を憂う」仕事である。


『昭和残侠伝』の主題歌である「唐獅子牡丹」は、「網走番外地」と同じような理由で放送禁止歌に指定されたが、レコードは地味ながらも息の長いヒットになった。

義理と人情を 秤(はかり)にかけりゃ
義理が重たい 男の世界
幼なじみの 観音様にゃ
俺の心は お見通し
背中(せな)で 吠えてる
唐獅子牡丹(からじしぼたん)


この歌のレコーディングではチエミさんが付きっきりで、スタジオで口移しのように歌い方をアドバイスしていた。

それから数年後、チエミさんの親族にまつわる複雑な愛憎や金銭トラブル、さらには不幸な出来事が重なったことで、不本意ながら二人は離婚することになった。

チエミさんはその後、思い出深い「唐獅子牡丹」を自分のレパートリーに加えて歌い継いでいった。

1980年5月、ロサンゼルスで開いた最後の海外公演では、歌う前にこうひとこと加えたという。

「私が大変親しくしていた人に敬意を表して、この歌を歌いたいと思います」


1982年2月13日、チエミさんは45歳の若さで急死してしまう。

葬儀が行われた2月16日は何たる偶然なのか、健さんの誕生日だった。
その日は二人の結婚記念日でもあった。

それ以来、健さんは生涯を独身を通した。そしてチエミさんの命日の前後には、必ず墓参りに出かけていたという。

チエミさんが自分で聴くために録音していた「唐獅子牡丹」は、死後になって発見されて聴くことが可能になっている。



(注1)横尾忠則さんのコメントは2014年11月19日 朝日新聞朝刊「日本中が、背中で泣いています 高倉健さんを悼む 美術家・横尾忠則」からの引用
(注2)高倉健さんの発言は、藤原佑好・著「江利チエミ 波乱の生涯―テネシー・ワルツが聴こえる」(五月書房)からの引用


横尾忠則『憂魂、高倉健』(単行本)
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