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ヴァン・モリソン〜孤高の歩みを続ける偉大なるアイリッシュ・ソウルマン

2016.06.08

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さらに西へ向かっていくと、僻地性はより増していった。見渡す限り芝と岩だけで、風が強く、その風の音以外は、何も聞こえて来なかった。こんな荒涼とした風景の中に人が住んでいるとは、ちょっと想像がつきにくかった。横から吹いてくる風は、秋だというのに骨にしみるほど冷たく、どこか「あの世」のような感じなのだ。


2012年に亡くなった駒沢敏器氏の著書『ミシシッピは月まで狂っている』の第3章「酒と音楽しかない」は、どんなに分厚くて偉そうな文献よりも、アイルランドの時間的・音楽的風景を切ないほどに描き出していた。

このような、人知とは違う次元での何かが支配的な場所では、そこから生まれてくる音楽も違うものになるのは、当然のことかもしれない、と僕は実感した。人が人として音楽を作るのではなく、風景の中に宿っている何かに感応するように、人を通じて音が生まれてくるのだ。つまり人は作り手ではなく、神と音の間にたった媒介にすぎない。


この文章を読むと、いつも一人のアーティストの歌声がどこからともなく聴こえてくる。

──その人の名はヴァン・モリソン。歌うために生まれた男。1964年にゼムのフロントマンとしてデビューして以来、孤高の歩みを続けてきたアイリッシュ・ソウルマン。一度も来日公演がないリビング・レジェンド。

しかし、ヴァンは自らの伝説やスター扱い、セレブ志向を嫌う。ロックンロールの殿堂入りをした1994年の式典にも出席を拒否した。「僕が何者であるかと言えば、ブルースやソウル、ジャズ等を歌うシンガーでソングライターだ」。彼を語るには短い言葉で十分らしい。

そのせいで、彼にはずっと“無愛想” “手に負えない” “気難しい” といったイメージがつきまとってきた。だがそれは本当なのだろうか? ただ曲を書き、レコードを作ったりステージに立ったりしているだけなのに、なぜライフスタイルや性格まで掘り起こされなくてはならないのか? ヴァンの信念や美学に揺るぎはない。

俺はショウビジネスに関して、何も知らないまま今に至っている。ハウリン・ウルフだってショウビジネスじゃなかった。彼もTOP10を狙っていたわけじゃない。今は若いポップアクトを売ることがすべての世界だ。

俺は60年代のノスタルジア列車にも飛び乗るつもりはないよ。今も新作を発表し続けている。だから60年代アクトのように俺を売ることはできないんだ。できないし、させない。そんなことは。


1945年8月31日、北アイルランドのベルファストで生まれたヴァン・モリソンは、音楽一家で育ち、父のレコードコレクションでブルース、ジャズ、ゴスペル、フォーク、カントリーなどに触れた。貧しいながらもギターやサックスを買ってもらい習得し、15歳で学校を退学。労働者階級の息子として窓拭きの仕事をしながら、モナークスという名のR&Bバンドの活動も並行した。

63年には米軍基地やクラブを巡る欧州ツアーの仕事を得た。ロンドンに行った時、そこで起こっていたR&Bブームを見逃さなかったヴァンは、ベルファストに戻って新たなバンド、ゼムを結成した。ハウリン・ウルフ、サニー・ボーイ・ウィリアムソンなどに影響を受けた荒々しいサウンドで地元のクラブでファンを獲得。デッカレコードとの契約が決まり、64年7月にデビュー。

労働者階級の白人だったから、ブルースで歌われていることには共感できた。彼らが歌っている内容は、俺自身の環境の中で意味を成した。普段の生活の営みを歌った現実的な歌詞、ということさ。ブルースは俺たちも抱えていた。


66年5月、ゼムは2ヶ月間の米国ツアーへ出向く。LAのウィスキー・ア・ゴー・ゴーに出演した時は、ドアーズが前座で、もう一人のモリソン、ジムはその時に間近で見たヴァンのパフォーマンスから多くのことを学んだと言われている。しかし、バンドの不安定な状態に不満を抱くようになり、全米ツアーの終盤にマネージャーと金銭で揉めたこともあって脱退。故郷に戻ってしまう。

その頃、ゼムのプロデューサーだったバート・バーンズが自らのレーベルを立ち上げた。才能を認められていたヴァンは、NYに呼ばれてシングル用の曲を録音。67年に「Brown Eyed Girl」 がヒットしてソロとして幸先の良いスタートを切るが、バーンズがこれに便乗して勝手にアルバムを発売してしまい、関係が悪化する。サイケデリック時代のポップスターとして売り出したかったのだ。

両者の対立はその年の末にバーンズが急死して思いがけなく終わるが、交わしていた契約はヴァンにとって非常に不利な内容で、今度は後継者の未亡人と対立。バーンズの会社の経営の裏にはマフィアの関与もあったので、恋人とともにNYからボストンに移り住むことにした。

この後、ヴァンはワーナー・ブラザーズへ移籍することになるが、バーンズのレーベルから契約を買い上げる際のエピソードが凄い。ワーナーの重役は裏社会に通じる知人の取り持ちで、自ら現金入りの袋を手にして人気のない工場へ出向いたという。そこで命の危険を感じながら契約書を交わしたのだ。

ヴァンの本物の才能はここから始まる。68年の夏、MJQのメンバーなどを起用した3回のセッションで『Astral Weeks』を録音。「史上最高のロックアルバム」「完璧な名盤」と評価されているが、ロックとは程遠い、フォークとジャズとブルースとクラシックなどが融合したジャンル分け不能の作品で、それまで誰も聴いたことがないような音楽の誕生だった。

音楽評論家/翻訳家の五十嵐正氏は、80年代にまだレコード店に勤めている頃、休暇を利用して3ヶ月の海外旅行を計画したという。その長い旅の同行者として連れて行ったのが『Astral Weeks』。聴き手をどこか別の場所へ連れていく作品で、その音楽の持つ想像力は聴き手をいかなる時間と空間にも誘う魔法を持つ、と評している。

『Astral Weeks』は音楽的、創造的には成功だったけど、食っていけない状態のままだったので、次のアルバムはロック的なものをやらなくてはと理解していた。


続く、70年の『Moondance』はラジオで掛かることを意識しながら作ったこともあり、ミリオンセラーになった。このアルバムの制作時、ヴァンはウッドストックに住んでいた。近所の住人にはザ・バンドの面々もいた。次作『His Band and the Street Choir』も、そこでの生活が反映されたリラックスした音楽が聴ける。「Domino」のヒットも生まれた。

しかし、有名なフェスのおかげでウッドストックが騒がしくなってきたので、モリソンは恋人から妻となったジャネットと西へ、北カリフォルニアのマリン・カウンティへ移住する。71年の『Tupelo Honey』はそんな環境で森に囲まれた家での結婚生活の歓びが聴こえてくる。

72年の『Saint Dominic’s Preview』では、本人が「カレドニア・ソウル」と呼ぶ音世界を確立。一方で73年に妻ジャネットと離婚。傷心のヴァンはベルファストに戻り、アイルランド西部を3週間旅する。74年の『Veedon Fleece』は、その旅がきっかけで生まれた作品で、『Astral Weeks』』と共通するアイルランド回帰の傑作として知られている。

と、ここまでヴァン・モリソンの第1期黄金時代の道程を辿ってきたが、80年代は美しいヴィジョンを探求する個人的かつ精神的な旅を歌い続けたり、90年代には第2期黄金時代も到来。00年代には発売40周年を記念して『Astral Weeks』の全曲を歌ったコンサート/ライブ盤の話題もあった。

知識を探し求めているだけだよ。精神の平穏、光を見つけようと努力すること。自分自身を発見することについてなんだ。何であれ、その目的地のような場所に到達することよりも、そこまでの道程が重要なんだ。音楽はその旅を表現している。



これが「史上最高のロックアルバム」「完璧な名盤」と言われる『Astral Weeks』。
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*音楽評論家/翻訳家の五十嵐正さん監修によるヴァン・モリソンの決定版が発売されました。最新のライヴリポート、バイオグラフィー、全アルバム評、貴重なインタビュー集などを収録した充実の内容となっています。
『CROSSBEAT Special Edition ヴァン・モリソン』

『CROSSBEAT Special Edition ヴァン・モリソン』
(監修/五十嵐正)


*写真はヴァン・モリソン公式サイトより

*このコラムは2015年6月27日に初回公開されました。

(こちらもこの機会にぜひお読みください)
みんなアイリッシュだった~アイルランド系特集

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