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追悼・石田長生~偉大なるミュージシャンズ・ミュージシャンにしてプロデューサー

2017.07.09

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石田長生さんの訃報がツイッターやFBで2015年7月8日の朝から流れて、HPを訪れてみると確かにその事実が告知されていました。

ご報告。
かねてから闘病中でした石田長生ですが、残念ながら7月8日の早朝に永眠いたしました。
回復を信じて応援して頂いた皆さま、有難うございました。【スタッフより】




石やんが音楽の道に憧れた10代の頃は、熱狂的なGSブームが起こっていた。
ところが本格的にギタリストを目指した高校時代には、GSブームが終息して関西ではフォークが盛んになっていた。
だから大学に入ってからはジャズギターを弾き始めたものの、今度は『Soul To Soul』という映画のなかでウィルソン・ピケットの歌うシーンに感動した石やんは、ジャズをやめてソウル・ミュージックへと身を投じた。

ちょうどその時期にB.B.キングの大阪公演を見たこともあって、R&Bに傾倒して70年代の初頭には上田正樹や佐藤博らとバッド・クラブ・バンドを組み、レイ・チャールズやジョー・コッカーのコピーから始めて大阪や京都のブルース・シーンで頭角を現していく。

その一方で「春一番」コンサートに出るフォーク・シンガー金森幸介のバックをやってくれないかと頼まれたのをきっかけに、フォークの拠点「喫茶ディラン」に通うようになって、常連だった西岡恭蔵や店主の大塚まさじとも知り合った。

ザ・ディランⅡ時代の西岡恭蔵の楽曲をレコーディングした企画アルバム、『オリジナル・ザ・ディラン』に参加したのが初レコーディングとなった。

オリジナルに向かう

60年代の関西におけるブルースやR&Bのシーンと関西フォークからスタートしたURCの連中とは、初めは交流がなかったが、あたりが柔らかく面倒見のいい石やんそれをつないだ結果になった。

大阪にやってきた友部正人が泊まるところがないというので、上田正樹の事務所に泊めてあげたりという。

当時の大阪は関西フォークにとって牙城だったURCレコードがばらばらになった後で、一種のカオス状態にあった。
そしてR&Bやブルースをやっていた連中も日本語で歌うことに積極的になり、フォークの連中は岡林信康とはっぴいえんどの関係などから、バンドが持ってるグルーヴ感というものに惹かれ始めていた。

1975年に単身で渡米した石やんはメンフィスに住み着いて、ソウル・ミュージシャンたちと交流を通して、スタジオにおけるプロデューサーの仕事とはなにかを学んだ。

帰国後は山岸潤史、北京一、チャールズ清水、永本忠、土居正和、ベーカー・土居、砂川正和、国府照幸とでツイン・ドラムス、ツイン・キーボード、ツイン・ギターという、スーパーグループ的なブルースバンド「ソー・バッド・レビュー」を結成する。

ソー・バッド・レビュー

それからはいくつものシーンが交わるクロスロードに立ち、人と人をつなぎながら次々にアルバムをプロデュースしていった。
まずは「ソー・バッド・レビュー」がライブの面白さと迫力で評判になり、アルバム・デビューの話が持ち込まれたので、石やんはまずLAで『SOOO BAAD REVUE』(1976)を録音することにした。

LAにあるアサイラム・レーベルのスタジオで最初の1ヵ月を使って、ソー・バッド・レビューとしてのレコーディングを終えた。

ソー・バッド・レビュー


2か月目からはハリウッドの別のスタジオで西岡恭蔵のソロ・アルバム『南米旅行』に、バンド・メンバーと一緒に参加した。

そして3ヵ月後には加川良を連れてメンフィスに行き、『南行きハイウェイ』しプロデュースしている。
これには前年にメンフィスで知り合ったプロデューサーのウィリー・ミッチェルに気にいられて、面倒を見てもらったときの体験と人脈が大いに役立ったという。

こうして石やんは個性的でアクの強いアーティストやミュージシャンたちからも信頼を得て、人と人を上手に結びつける役割を自然に身につけていたのだろう。

その後もザ・ディランⅡ解散から1年半後の1976年3月に発売された大塚まさじのファースト・ソロ・アルバムをプロデュース、ソロとして自由になった大塚まさじの魅力を1枚のレコード『遠い昔ぼくは‥‥』に凝縮させた。

馬呆


Charと2人でアコースティック・デュオの「馬呆(BAHO)」を結成したのは1989年で、ここからはギタリストやプロデューサーとして以上に、アーティストとして一般にも名前が知られるようになった。

その後、石やんは1996年から活動の中心を東京へ移して、旅をテーマに全国各地をまわる「石やん一人旅」を始めた。
また、南米のブラジルやアルゼンチン、ペルーを回ってセッションして音楽を吸収したり、南太平洋(サモア、トンガ、フィジー)及びジャマイカ、メキシコなどにも渡って、現地のミュージシャンと演奏するなど、ワールドワイドな活動にも身を入れてきた。

2014年11月19日、かねてから入院中だった母親シゲノ(享年90才)さんが永眠した翌日、 石やんは自分のブログにこんな言葉と歌を捧げていた。

いろいろ迷惑、心配かけたなぁ、お母ちゃん。
子供の頃の母親とのいろんな記憶や景色を今、想い浮かべている。

[マザースソング]

I Remember ずっと昔 子供の頃に
Mama Told Me 「御飯いっぱい食べなきゃ駄目よ
Come on Boy ! 早くいっぱし男になって」
Mama Told Me 「いつかイカしたBluesを歌って」

I remember「街の誘惑、気をつけなさい」
Mama Told me「化粧、香水、気を引く女
Come on Boy ! いつもこの世はお金で動く」
Mama Told Me 「だけど魂、取られちゃいけない」

彼女のBabyは転がる石ころ
宝探しの旅に出る
彼女のBabyは大きな赤ん坊
たまには今も大きな声で泣く

I Remember「 良くない事もたまにはあるさ」
Mama Told Me「お前のパパも完璧じゃない
Come on Boy ! いつか大人になったら、きっと」
Mama Told Me 「お前の歌うBluesで酔わせて」

彼女のBabyは転がる石ころ
宝探しの旅に出る
彼女のBabyは大きな赤ん坊
たまには今も大きな声で泣く

I Remember ずっと昔 子供の頃さ
Mama Told Me 「御飯いっぱい食べなきゃ駄目よ
Come on Boy ! 早くいっぱし男になって」
Mama Told Me 「ギター抱えて Bluesを歌って」

ありがとう、おふくろ
ゆっくり眠ってや

11月19日夕方…。


それから1年もしないのに、石やんもまた逝ってしまったのだった。
ありがとう、石やん、どうぞゆっくり眠ってください。

 



(注)石田長生さんの発言は、『MUSIC×関西70’s』MUSEUM VOICE 石田長生(ミュージシャン) インタヴューTEXT/今井智子からの引用です。
(このコラムは2015年7月8日に公開されたものです)


石田長生『The Best of Ishiyan』
ZICCA RECORDS

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