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寺山修司が世に出した”ふたりのマキ”②カルメン・マキ「時には母のない子のように」

2023.05.05

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2015年10月24日、カルメン・マキがNHK-BSプレミアム「ザ・フォーク・ソング~青春のうた」に出演して、「戦争は知らない」と「時には母のない子のように」の2曲をうたった。

曲と曲の間には亡き寺山修司のことを、こんなふうに語っていた。

1968年頃に赤坂にスペースカプセルというゴーゴークラブがありまして、そこのイベントを寺山修司さんがプロデュースしたのですが、その中で私のコーナーみたいなのがあって、私はそこで歌と詩の朗読をやっていました。
その内容をほぼそのままアルバム化したのが、私のデビュー・アルバムの『真夜中詩集 カルメン・マキ~ろうそくの消えるまで』です。
それはカルメン・マキのアルバムというよりも、私は寺山修司作品じゃないかなと今は思ってます。
まあそれだけ寺山修司さんという人が私を理解し、また17歳の少女の感性、私の生い立ちもふくめて、とても私をよく理解してくれていたからこそ、ああいうアルバムができて、ほんとにプロデューサーと歌手のとてもいい、完成された珍しい傑作じゃないかなと自画自賛しております。


カルメン・マキ真夜中詩集

1968年に赤坂にオープンしたディスコテックの「スペース・カプセル」は、建築家の黒川紀章の設計で内装がすべてステンレスにおおわれ、宇宙ロケットの内部を思わせる斬新なデザインが話題になっていた。

最先端の消費文化とアンダーグラウンドが交差する場所として、1969年から評判になっていくスペース・カプセルのオープニング・イベントの企画を頼まれたのは、前年に演劇実験室・天井桟敷を創立して時代の風雲児になっていた寺山修司だった。

そこで天井桟敷の『時代はサーカスの像に乗って』公演からとった下馬二五七と蘭妖子などによる寸劇と、カルメン・マキの歌と詩の朗読で構成されたショーを作った。

カルメン・マキは父がアイルランドとユダヤの血を引くアメリカ人、母は日本人のハーフで、神奈川県鎌倉市に生まれて東京で育った。
本人の書いたプロフィールによれば、1968年に都内の某お嬢様系ミッションスクールを高校2年で中退し、新宿や渋谷のJAZZ喫茶やディスコに入り浸る日々のなかで、天井桟敷の『青髭』」を観て感銘を受けて入団したという。

新宿厚生年金会館で8月に開催された『書を捨てよ、町へ出よう』で初舞台を踏んだカルメン・マキの資質を見抜いた寺山修司は、自分が書いた歌詞の「時には母のない子のように」をうたわせることにした。

天井桟敷に入団したもののおどろおどろしさになじめず、役者ではなく寺山修司の秘書になった田中未知の手で、その歌詞には素朴ながらも人の心を打つメロディがついていた。

スペース・カプセルでそれを聴いたのが新しく発足したばかりのレコード会社、CBSソニーのディレクター酒井政利と金塚晴子のふたりだった。
すぐにレコード・デビューが決まり、レコーディングが行われた。

年が明けた2月21日に発売されたシングル盤は、CBSソニーにとって最初の大ヒットになったのである。

時には母のない子のように

レコーディングされたばかりの状態だったテープをコピーした寺山の秘書、田中未知はニッポン放送のディレクターだった上野修のところ届けた。

深夜放送で流していただきたいことをお願いし、上野さんは約束どおり、「時には母のない子のように」をラジオに初登場させてくださったのだ。その後、上野さんから聞かされたのは、次の日、視聴者から送られてきたリクエストのハガキを積み上げたら、1メートル半もあったという驚きのエピソードであった。(田中未知著「寺山修司と生きて」新書館)




「時には母のない子のように」が19世紀のアメリカで生まれた黒人霊歌、「Sometimes I Feel like A Motherless Child(ときどき、わたしは母親のいない子のような気持ちがする)」が下敷きになって生まれたことは良く知られている。

ときどき、わたしは母親のいない子供のような気持ちがする
故郷から遠く離れて
真の信者
故郷から遠く離れて


生まれ故郷のアフリカから引き離されてアメリカに連れて来られた奴隷たちが、もう二度と生きて母親には会えない運命を嘆き悲しむこの歌を、ずっと以前からレパートリーにしてうたっていたのが浅川マキだった。

ゴスペルやブルースを聴きこんで自分のうたい方を作り上げた浅川マキは、心酔していたマヘリア・ジャクソンを見習って自分の歌を絶対に暗くうたわなかったという。
苦しさや辛さ、もの悲しさはだまっていても内面から出てくるものであり、その深さゆえに聴き手に自然に響くと信じていたのだ。

無名の新人だったカルメン・マキの「時には母のない子のように」が、何の宣伝活動もない状態でたちまちのうちにに日本中に浸透したのは、彼女のブルージーな声そのものからにじみ出る哀感が時代を照らしたからだろう。

いまふりかえると浅川マキとカルメン・マキが寺山修司に見出されて1969年に世に出てきたのは、偶然ではなくほんものの才能と才能が出会ったことの結果として必然だったのかもしれない。

・「戦争は知らない」についてはこちらのコラムで紹介しています。



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