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【追悼】 アラン・トゥーサンをイギリスでいち早く取り上げたローリング・ストーンズ

2015.11.12

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オーティス・レディングが自ら作曲した「ジーズ・アームズ・オブ・マイン」を発表したのは1962年10月のことだ。
そのときオーティスは21歳、かろうじてR&Bチャート・トップ100内に入ったものの、とても成功とは呼べない結果に終わった。

しかし1964年に発表した5枚目のシングル「ペイン・イン・マイ・ハート」はR&Bチャートで11位になり、イギリスでは同曲を収録した1stアルバム『ペイン・イン・マイ・ハート』が28位まで上昇した。
オーティスはこの成功によって、当時はまだ数少なかったシンガー・ソングライターとして認められるようになる。


それを聴いていち早くカヴァーしたのがローリング・ストーンズだった。

翌1965年のアルバム『ローリング・ストーンズ No.2』に収録され、レコードには「レディング/ウォルデン」とクレジットされた。
ウォルデンはオーティスのビジネス・パートナーだったフィル・ウォルデンのことだ。


ところが「ペイン・イン・マイ・ハート」には、別の原曲があったことが判明する。

それは1962年に女性シンガーのアーマ・トーマスが歌った「ルーラー・オブ・マイ・ハート」で、ソングライターのナオミ・ネヴィルとは、プロデュースしたアラン・トゥーサンのペンネームだった。

曲だけをいただいたフィルは、歌詞を「ペイン・イン・マイ・ハート」に変えて、オーティスとの共作として著作権登録した。

トゥーサンはフィルのあまりにも露骨な剽窃に対して、レコード会社とオーティス側を相手取って訴訟を起こす。
その結果、「ペイン・イン・マイ・ハート」のクレジットはナオミ・ネヴィルに統一されることになった。

Irma Thomas “Ruler Of My Heart”

ストーンズは意識せずしてアラン・トゥーサンの楽曲をカヴァーしていたわけだが、彼らがトゥーサンの楽曲を取り上げたのはこれが初めてではなかった。

デビュー当時のローリング・ストーンズはまだオリジナル曲がなく、レパートリーはR&Bとブルースのカヴァーだった。
彼らがデッカ・レコードと契約してデビューしたのは1963年だが、その頃からすでにトゥーサンの「フォーチュン・テラー」をレパートリーにしていたのだ。

1stシングル「カム・オン」に続くシングルとして録音された「フォーチュン・テラー」は、一旦お蔵入りとなり、1964年の1月に発売されたオムニバス盤『サタデー・クラブ』でやっとレコード化された。

それから2年後、「フォーチュン・テラー」はライブ盤『ゴット・ライヴ・イフ・ユー・ウォント・イット』にも収録された。
だがそれはスタジオ収録した音源に、観客の歓声をオーバーダビングしたもので、本物のライヴ音源ではない(なお今ではオリジナル音源がリマスター盤で聞くことが可能)。

the rolling stones – fortune teller (alternate version)

ニューオーリンズのレーベルでディレクター&プロデューサーとして働いていたトゥーサンが、アメリカでソング・ライターとして知られるようになったのは、アーニー・ケイ・ドウに提供した「マザー・イン・ロウ(いじわるママさん)」が、1961年に全米1位のヒットを記録してからだ。

「フォーチュン・テラー」のオリジナルはニューオーリンズで活躍していたR&Bシンガー、ベニー・スペルマンの代表作となった「Lipstick Traces (On A Cigarette)」のB面に収録されていた。
そんな曲を探し出してきてカヴァーするのが、R&Bとブルースに心酔していたローリング・ストーンズらしいところだ。
イギリスでトゥーサンをいち早く取り上げたのは、おそらくストーンズであっただろう。

トゥーサンが亡くなったのは2015年11月10日、ツアー先のスペインで公演後に心臓発作を起こして、77歳で他界した。

プロデューサー、アレンジャー、ピアニスト、そして自らもアーティストとして活躍したトゥーサンの訃報に、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズは「ニューオーリンズが産んだ偉大なソングライターの1人だ」という賛辞を贈っている。


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