「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

Extra便

浅川マキに魅入られた喜多條忠が、南こうせつとかぐや姫に書いた歌~「マキシーのために」

2016.01.08

Pocket
LINEで送る

作詞家の喜多條忠が初めて浅川マキの歌に出会ったのは1968年、銀座にあったシャンソン喫茶『銀巴里』でのことだ。
まだ学生だった喜多條が『銀巴里』に入ったのはまったくの偶然だが、それが人生のターニング・ポイントになった。

1968年といえば「劇団・天井桟敷」を起ちあげた寺山修司がシャンソン歌手だった丸山明宏を主演に迎えて、『青森県のせむし男』と『毛皮のマリー』という、ふたつのアングラ芝居を上演した年にあたる。
それが大評判を呼んで女優、女形として丸山明宏は脚光を浴び始めていた。

当時付き合っていた彼女と銀座に行った時、たまたま<銀巴里>の前を通りかかったんです。
その日は、丸山明宏(現・美輪明宏)が出ている日で、彼女が観てみたいというので、なけなしの金で入ったんですが、その時、前座で歌っていたのが浅川マキだったんです。
丸山明宏を観るつもりが、その前座の浅川マキという歌手に魅入られてしまって、その後、一人で銀巴里に聴きに行くようになったんです。
当時から「奇妙な果実」はうたってましたね。


その頃の浅川マキは前年に「東京挽歌」でデビューしたものの、レコードがまったく売れず、キャバレーまわりや営業の仕事にもなじめず、銀巴里で月に一回くらい、ビリー・ホリデイの「奇妙な果実」や自作の「夜が明けたら」などを歌っていた。

前座が出る時間帯は客席も空いていたので、喜多條は昼から夜まで半日ぐらい銀巴里で過ごしたという。
60年代の大学生はまだ世間では尊重されていて、寛大に見られるところがあった。

喜多條は浅川マキの歌を聴きながら、ノートを広げて詩などの書きものをしていた。
歌手がうたっているのに顔もあげないで、ノートに何かを書いている客がいることに気づいて、浅川マキは客席まで降りていって「何書いてるの?」と聞いた。

「マキさんの歌を聴いていると、いろいろと言葉が浮かんでくるんです」って言って書いたものを見せると、あの口調で「やるわね、学生さん」って言われまして。


それがきっかけで喜多條は、浅川マキに寺本幸司を紹介される。
才能と才能はこんなふうに、何かに導かれるように出会っていくのだろう。

プロデューサーだった寺本は六本木のミカドビルにあった事務所で、毎月一回ぐらい詩や音楽の勉強会を開いていた。
そこには浅川マキと中島みゆきの写真で有名になるカメラマンの田村仁や、ジャックスの早川義夫、早川とともに歌を書いていた相沢靖子、フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が大ヒットしたデザイナーの松山猛、シンガーソングライターの南正人などが集っていた。

その集まりに参加するようになった喜多條は、浅川マキのアルバム『MAKIⅡ』(1971年9月5日)で、「雪の海」という曲を作詞することになる。

しかし浅川マキに詞を提供する前、1970年には最初のレコードが出ていた。
大学を中退して文化放送の番組で台本を書いていた時に、南こうせつから頼まれて初めて歌詞を書いた「ピラニアのために」である。

これが第一期かぐや姫によって「マキシーのために」というタイトルで、シングル盤になったのだ。

マキシーのために
この歌に出てくる主人公マキシー(原詩ではピラニア)は、実在した喜多條忠の友人だった。
学生運動が盛んだった頃によく知られていた女性活動家で、喰らいついたら離れないので“ピラニア”と呼ばれていた。

浅川マキに「やるわね、学生さん」と言われた大学生は、やがてかぐや姫に提供した「神田川」の大ヒットによって、作詞家としての成功を掴むことになる。



注・喜多條忠の発言は「ロング・グッドバイ 浅川マキの世界」(白夜書房)からの引用です。

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[Extra便]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ