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世をすねた獣みたいに片隅にうずくまり、丸く肩をすくめて、うらめしそうにしていた泉谷しげる

2016.10.28

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若者たちの間でフォークソングやロック・バンドに関心が高まっていた1971年の秋、泉谷しげるのデビュー・アルバム『泉谷しげる登場』が11月20日に発売になった。

東京のインディーズ・レーベルだったエレック・レコードの看板アーティスト、吉田拓郎のアルバム『人間なんて』と同時発売だったことで、フォーク・ファンの若者たちの間で注目を集めた。
日本のロック史に残る名盤、はっぴいえんどの『風街ろまん』も同じ日に発売された。

『泉谷しげる登場』は10月25日に目黒・杉野講堂で開催されたコンサート、「泉谷しげるリサイタル」の実況録音から編集されたライブ盤だった。
それまでの常識をくつがえして、シングル盤を出さないままアルバム・デビューした泉谷は、鮮烈な印象を与えて音楽シーンに登場してきた。

エレックは人気が急上昇していた吉田拓郎に続く、”フォークの新星”という役を泉谷に期待していた。
そして無名の新人だったにも関わらず、『泉谷しげる登場』は最初からかなりの売れ行きとなったのである。

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吉田拓郎と組んで作詞家として活躍することになる岡本おさみが、泉谷と最初に出会ったのは渋谷にできた実験的な小劇場「ジァンジァン」の楽屋だった。
その日の泉谷について、岡本はこう書き記している。

この日の泉谷をぼくはよく覚えている。六文銭、加藤和彦、吉田拓郎がゲストでジァンジァンの薄汚れた狭い楽屋は、人でいっぱいだった。
皆、もう人気者で気軽にしていたけれど、一人泉谷だけが、世をすねた獣みたいに片隅にうずくまり、丸く肩をすくめて、うらめしそうにしていた。
その隣にぼくもしゃがみ込んで話すと、泉谷はニヤッと笑った。


エレックのプロデューサーだった浅沼勇から「すごい歌手がいる。とにかく今すぐ聴かせたい」と言われて、岡本は泉谷のテープを聴かされて大いに興味を持った。
本人の弁では、”べた惚れ”したという。

出会ってからまもなくして、岡本は詩を提供して浅沼がそれに曲をつけた。
デビュー・アルバムでも歌われた「義務」である。


岡本は大きく揺れ動いていた時代を背景に、夫婦の日常会話を使って市井の人間と社会との関わりを表現した。



”あくせく働くいち庶民”の歌は、無名の若者の一人だった泉谷にふさわしいものだった。
泉谷はちょうどその頃、自分でも働く名もない若者の歌を作っていた。

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岡本が”仲間はずれにされた野良猫”と感じたように、当時の泉谷は周囲の人たちに溶け込めずにいたという。

あの頃はまわりが信用できなかった。
俺の唄が評価されることもないし。
「お前いいよ」なんて言われても、同情してんだろうくらいにしか思わなかったね。
だからこっちも客に「帰れ馬鹿野郎」ってどなってた頃があった。


レコード・デビューする前から客に向かって、泉谷が「帰れ馬鹿野郎」とどなっていたことがわかる。

それから少し後になって二人が組んだソングライティングによって、対立する立場の相手との会話によるユーモラスな歌、「黒いカバン」が生まれる。





*最初からヒットの道が閉ざされていた泉谷しげるの「黒いカバン」

(注)岡本おさみと泉谷しげるの発言は、ともに「ビートルズが教えてくれた 岡本おさみ作品集と彼の仲間たちの対談」(自由国民社)からの引用です。

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