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鈴木茂②~細野晴臣の家で聴いたレコードで馴染んだアメリカン・ミュージック

2016.05.20

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中学1年生で自分のギターを手に入れた頃から、鈴木茂はプロのミュージシャンになろうと心に決めていた。

都立玉川高校に入学してからも鈴木茂はレコードを先生にして、我流の練習で上達していった。
やがて「奥沢にギターの上手いヤツがいる」という噂を聞いて兄の友人、後に小坂忠とザ・フローラルを結成してプロ・デビューする柳田ヒロが訪ねてきた。

そしてオーディションを受けてみないかということになり、新宿にあった御苑スタジオに出かけていった。

オーディションでは物怖じしない方だったね。
生意気にも、人に聴いてもらいたいっていう気持ちが強かったからね。
ただ自分たちだけで弾いているだけじゃ、もう満足できなかったんだ。
当時のレパートリーはベンチャーズだけだったよ。


そのオーディションには、立教大学のカントリー・バンドにいた細野晴臣も来ていた。
青山学院高等部のムーヴァーズにいた林立夫や小原礼たちは、ヤードバーズなどイギリスのバンドのコピーをしていた。

鈴木茂はジミ・ヘンドリックスのコピーをしながら、知らず知らずのうちにシャープ・ナインスのコードとかを弾くようになっていく。
そして憧れのギタリストをコピーしながらも、ある時期からはあまり凝らないほうがいいと考えるようになった。

必要な部分だけ吸収して、そこから先は自分の中で組み立てていくほうがいいんじゃないかと思うようになってね。
自分の周りで、ある人はノーキー・エドワーズ、またある人はエリック・クラプトンのそっくりさんになっていくのを横で見ていて、自分はそうならない方が将来的にはプラスになると直感的に察していたんだ。


ジャズ・ロックのラリー・コリエルのようにソロを弾きまくるソリストとしてのスタイルに進むか、あるいはビートルズのジョージ・ハリスンがそうであったように、まず歌ありきで、それに合うギターを弾くスタイルなのかと悩んだこともあった。

だが後者に決めたことで、ジャズのスケールやロックの早弾きを覚えても、ある程度以上は追求しなかった。
それよりも楽曲に合うリフを、自分で工夫して作る方向を選んだのだ。

まだアマチュアの高校生だったが、どうすれば自分のスタイルを確立できるのかを意識して、周囲を冷静に見ながら自己流でギターを弾いていた。
同世代のギタリストと決定的に違っていたのはその点だった。
それがはっぴいえんどに入る布石となっていく。

知りあった音楽仲間たちがそれぞれのバンドが解散したことで、一緒に演奏していくようになり、後に日本の音楽シーンの中核を形成していく人間関係が出来ていったのである。

鈴木茂は知り合いになった細野晴臣と林立夫とバンドを組み、朝まで一緒にレコードを聴いて音楽の視野を広げていった。


そこで聴かせてもらったのがトラフィック、バッファロー・スプリングフィールド、モビー・グレイプ。
細野さんはどちらかといえば土臭いアメリカン・ミュージックが好きで、カントリー寄りの人。
ぼくはプロコル・ハルムとかが好きでブリテッシュ寄りだったけど、だんだん馴染んできてポコとかニール・ヤングとかアメリカンも好きになっていった。


そうこうしているうちにザ・フローラルはエイプリル・フールへと発展し、小坂忠が毎月5万円という好条件の給料をちらつかせて、細野晴臣はベースに引き抜かれてしまった。
〈参照コラム「GSのザ・フローラルからエイプリル・フールを経てはっぴいえんどへ至る道」

ベースがいなくなったので小原礼に入ってもらい、林立夫とトリオで作ったバンドがスカイだ。
その頃のプロやセミプロのバンドが演奏していたのは、主にディスコである。

当時はオリジナルなんてやるバンドはほぼ皆無、どこのバンドも洋楽のカバー曲ばかりを演奏していた。
みんなそういうバンドだったから、お互いを見て影響を受けたり与えたりしていた。


ディスコには外国人のバンドも時折出演していたが、なかでもフィリピンから来たスーナーズと、イギリスのクリニックが有名だった。
クリニックが出演していたのを見に行った鈴木茂は、テレキャスターにはアームがないことに気がついてびっくりしたという。

しかも、よく見るとそのギタリストの左手の指が間を抑えながら小刻みに震えている。
「あ、そうだったのか。これがビブラートなんだ…」
つまり、ビブラートのやり方を知らなかったと言うことだよね(笑)。
それまでぼくはビブラートというテクニックはアームでやるものだと思っていたんだ。
それを目のあたりにしてショックを受け、クリームの「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」を聴きながら、エリック・クラプトンのビブラートを一生懸命マネした。
その後、ジミ・ヘンドリックスを聴いてさらに練習して、マスターして行ったんだよ。



そんな感じで高校時代の生活は、バンド活動一色の日々となった。
それが可能になったのは、その年に1年間だけ、時代の追い風が吹いていたからだった。

高校2年の終わりあたりから盛んになっていた学生運動の影響で、都立高校ではあちらこちらで授業がボイコットされて討論会が開かれたりした。
だから授業がまともに行われない高校もあり、ほとんど学校に行っていなかった生徒でも卒業できた。

鈴木茂が通っていた玉川高校でも、高校3年の初夏にバリケードが作られて教室に入れなくなる事態になった。
そしてその年の秋にエイプリル・フールが解散し、鈴木茂は細野晴臣に誘われて、はっぴいえんどに加入するように説得されるのだ。



(注)文中の鈴木茂の発言はすべて「自伝 鈴木茂のワインディング・ロード はっぴいえんど、BAND WAGON それから」( リットーミュージック) からの引用です。


鈴木茂『自伝 鈴木茂のワインディング・ロード はっぴいえんど、BAND WAGONそれから』(書籍)
リットーミュージック

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