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追悼・永六輔さん~いずみたくとのコンビでも「見上げてごらん夜の星を」や「いい湯だな」などのスタンダード・ナンバーを遺した才人

2016.07.12

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20世紀はラジオやテレビといったメディアが発展し、レコードの普及などによって音楽と文筆業の領分は大きく拡がりました。
そんな時代のパイオニアだったのが放送作家で、作詞家としても活躍した永六輔さんです。

一貫して市井に生きる表現者であり続けた永さんが、その才能を発揮し始めたのは戦後すぐの頃、焼け野原だった日本で最も人気のあったNHKのラジオ番組、『日曜娯楽版』のハガキ職人としてでした。
コントの投稿ハガキが番組の中心人物だった人物、作詞・作曲を手がける才人の三木鶏郎さんの目に留まって、高校生ながらスカウトされたことで、放送作家の卵となっていくのです。

折しもテレビが放送を開始して黎明期に重なったことから、永さんは新進気鋭の放送作家として活躍していきます。
伝説的なバラエティ番組となった日本テレビの『光子の窓』、同じくNHKの『夢であいましょう』を手がけて才能が花開きました。

また早稲田大学の先輩であるジャズ界のスターだった中村八大さんに頼まれて、二人で徹夜しながら行った最初の歌づくりから、第1回日本レコード大賞に輝いた「黒い花びら」と、21世紀になって広く歌い継がれるようになった「黄昏のビギン」が生まれてきます。

その後は八大さんとの六・八コンビによるソングライティングで、「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」などを作ってヒット曲を誕生させました。
また、三木鶏郎門下の後輩であるいずみたくさんとは「見上げてごらん夜の星を」を皮切りに、「女ひとり」「いい湯だな」などを作詞して現在でも愛されているスタンダード・ナンバーをたくさん作っています。

そして1994年にはエッセイ『大往生』が大ベストセラーとなりました。

テレビ、ラジオ、レコード、そして書籍、いずれの分野でも一流の実績を残した、まさに才人という言葉がふさわしい方でした。

永さんは普通の話し言葉で歌詞を書いて、最初に成功した人でもあります。
当時の作詞家の方々は、多かれ少なかれ「文語的表現」からは逃れられませんでした。
でも永さんは日常でわかりやすい「はなし言葉」を生かしながらも、橋と箸の違いなどにも気を遣って、ごく自然に西洋の音楽に日本語を乗せていました。

ことさら詩的な表現を使わずに普通の言葉で、誰にでわかるように人の気持ちを歌にしていく。
それが永さんならではの表現で、並の人には及びもつかない域に達してたのです。


ぼく個人の関わりとしては2010年にスタジオジブリのフリーぺーパー『熱風』で、「上を向いて歩こう」についてノンフィクションの連載を始めた時に、編集部経由でひとこと「脱帽!」と書かれたハガキをいただきました。
たったひとことでしたが、文字が躍動しているようで、何よりも嬉しかったことを昨日のように思い出します。

2011年に連載が書籍化されたときには帯に、素晴らしい推薦の言葉をいただきました。

その翌年の秋に雑誌『中央公論』で歌謡曲について、対談させていただく機会をいただきました。
そこで永さんが教えてくれた一言がきっかけとなって、2冊目の単行本である『黄昏のビギンの物語』が生まれました。

その他にも折に触れて的確なアドバイスやご指導をいただいたことに、あらためて感謝の言葉が尽きません。



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世界で一番有名な「ジャパニーズ・ソング」はこうして生まれた! 前編



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世界で一番有名な「ジャパニーズ・ソング」はこうして生まれた! 後編



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黒柳徹子が持ち味を発揮し始めた伝説の番組『夢であいましょう』



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ヨーロッパでもアフリカでも歌われていた「遠くへ行きたい」



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ちあきなおみによって奇跡的によみがえった「黄昏のビギン」

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