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追悼・永六輔~わかりやすい話し言葉で人の気持ちを伝えるスタンダード・ソングを残した才人

2018.07.06

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20世紀はラジオやテレビといった放送メディアが発展したことや、レコードの製造や再生機の普及などによって、音楽の表現領域とその影響力大きく拡がった。
そんな時代のパイオニアだったのが放送作家からスタートし、20台の半ばから30代にかけては作詞家として著しい活躍をした永六輔である。

一貫して市井に生きる表現者であり続けた永六輔が才能を発揮し始めたのは、焼け野原だった戦後すぐの頃の日本で最も人気のあったラジオ番組、NHKの『日曜娯楽版』のハガキ職人としてであった。
中学生のころからコントを書いて応募していた投稿ハガキが、番組の中心人物で人物で作詞・作曲を手がける三木鶏郎の目に留まったことから、高校生ながらも彼が主宰する文芸部に出入りするようになったのだ。

そして早稲田大学に入ってからは自然な流れで、スタッフとして三木のもとに加わり、たちまちのうちに人気放送作家になっていった。
折しもテレビが放送を開始して黎明期に重なったこともあり、永六輔は伝説的なバラエティ番組となった日本テレビの『光子の窓』、同じくNHKの『夢であいましょう』を手がけて才能が開花させていく。

また早稲田大学の先輩であるジャズ界のスターだった中村八大に頼まれて、翌日の朝まで徹夜し行った最初の歌づくりのなかからは、1959年に第1回日本レコード大賞に輝いた「黒い花びら」と、21世紀になって広く歌い継がれるようになった「黄昏のビギン」の原曲が誕生している。



その後は中村八大とのソングライティングで「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」「帰ろかな」などを夜に出し、六・八コンビによるヒット曲を誕生させた。
また三木鶏郎の門下である作曲家のいずみたくとも「見上げてごらん夜の星を」を皮切りに、「女ひとり」「いい湯だな」などを作詞し、現在でも愛されているスタンダード・ソングを数多く残した。

1970年代に入ると活動の中心はラジオ出演と文筆活動に絞るようになり、1994年にはエッセイ『大往生』が記録的なベストセラーとなった。

永六輔は日本の音楽史において、日常会話に使われる話し言葉の歌詞で最初に成功した人である。
当時の作詞家は日本語の特徴である七五調による文語的な表現から、多かれ少なかれ逃れられないでいた。
しかし永六輔はわかりやすい話し言葉を生かしながらも、「橋」と「箸」のイントネーションの違いなどにも気をつかって、西洋音楽のリズムとメロディに自然な感じで日本語を乗せていった。



ことさら詩的な表現を使うことなく、誰にでもにもわかりやすい言葉で人の心を歌にしていったことについて、さだまさしは永六輔が逝去した2016年に出版した著書「笑って、泣いて、考えて。永六輔の尽きない話。」(小学館)のなかで、このように述べていた。

歌はいわば生鮮食品です。時が経ば腐ります。特に「言葉」が傷むのは早く、すぐに古びてしまう。
ところが、永さんの歌詞はぜんぜん古くない。今の世に新曲として出しても十分、通用します。


それが永六輔ならではの表現力によるものであり、シンプルな「言葉」の選び方には他の追随を許さないものがあった。
なかでも「遠くへ行きたい」について、さだまさしは「これほど見事な旅の歌はない」と高く評価している。

知らない町を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を 眺めていたい
どこか遠くへ行きたい
遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か 幸せを
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい


幼い頃からNHKの『夢であいましょう』を観て育ったさだまさしは、自分がシンガー・ソングライターとして活躍するようになってから、永六輔の影響下にあることに気がついたという。
なかでも「遠くへ行きたい」は、別格に感じたという。

この歌があるためか、僕は今でも旅の歌が書けません。奈良や津軽、いろいろな場所を舞台に歌をつくりましたが、それはそこで生活している人々の視点です。旅がテーマではありません。
『生きるものの歌』『夢であいましょう』‥‥‥永さんの書いた歌詞をじっくり読み直して、僕の歌の原型がここにあることを確信しました。
『関白宣言』も『親父の一番長い日』も『防人の詩』も、今思えば永さんが先にやっている。
まるで孫悟空の気分です。『遠くへ行きたい』に憧れ、歌を作り続け、随分がんばってきたなと振り返ったら、いまだ永さんの手のひらの上だったということです‥‥‥。


亡くなる直前までラジオ・パーソナリティーの現役として生きた永六輔には、日本全国の津津浦浦に家族ぐるみのファンがたくさんいた。
それは子供も若者も、大人も、老人も、永六輔の話す言葉の奥にある思いを、それぞれの感性で受けとめて楽しんだり、共感したりしていたからであろう。

心に響く歌の数々、心を支える言葉の数々は、これからの日本でどのように伝わっていくのだろうか。


(注)本コラムは2016年7月12日に公開されたものを改題、改訂したものです。

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ヨーロッパでもアフリカでも歌われていた「遠くへ行きたい」



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ちあきなおみによって奇跡的によみがえった「黄昏のビギン」

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