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小林幸子~赤レンガに響き渡った岩谷時子への想い~

2013.12.28

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女性作詞家のパイオニアだった岩谷時子が、97歳の生涯を終えて天国へ旅立ったのは、2013年の10月27日だった。

歌手になって50年という節目の年にふさわしい新しい企画に挑んでいた小林幸子は、岩谷作品で構成されるコンサートをその5日後に予定していた。

「突然のことで、まだ気持ちの整理ができず、今はどのような気持ちでライブに挑めばよいかわかりませんが、先生に届くように精一杯歌わせていただきたいと思います。」

江戸時代から文明開化の明治、大正を経て、第2次世界大戦による敗戦と連合軍の占領によって、戦後に著しく変わったのが女性の生き方と価値観だ。

復興とともに新しい時代がやって来た時、歌詞に託したメッセージで女性の意識を先導していったのが岩谷時子の書くシャンソンやポップス、歌謡曲であり、幼少時からそれらの楽曲を聴いて育った小林も、多大な影響を受けた1人だ。

11月1日、横浜の赤レンガ倉庫では予定通り、「小林幸子&ソノダバンド LIVE ~岩谷時子を歌う」というコンサートが開催された。
その夜は越路吹雪のレパートリーだった「愛の讃歌」や「ろくでなし」などのシャンソンや、「ウナ・セラ・ディ東京」、「いいじゃないの幸せならば」、「一寸おたずねします」といった曲の数々が、岩谷を敬愛する小林幸子によって披露された。

終演後は岩谷の関係者たちがバックステージを訪れて、内容とその出来を絶賛した。

「私にとっては自分の中にある沸々としたものが存分に出せたので、達成感というよりも爽快感のほうが大きかったですね。」

自分の歌謡ショーの中に今でもシュープリームスの曲を挟み込むなど、子供の頃から洋楽やポップスが大好きだったという小林幸子は、「ラストダンスは私に」を越路吹雪の歌ったシャンソンのスタイルではなく、ドリフターズの原曲に近いロックンロールにアレンジして歌った。

バンドのヴォーカリストとしてライブが出来た満足から、その晩はスキップするような気持ちで家路についたという。

小林幸子 / ウナ・セラ・ディ東京

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