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カルトになったロックンロール映画『女はそれを我慢できない』とビートルズの「バースデー」

2017.06.23

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1956年にハリウッドで製作された映画『女はそれを我慢できない』は、悩殺グラマー女優のジェーン・マンスフィールド主演によるエンターテインメント・コメディである。

主題歌を歌ったリトル・リチャードを筆頭にして、ジーン・ヴィンセント、ファッツ・ドミノ、ザ・プラターズ、そしてエディ・コクランなど、当時の新鮮なロックンロールがワイド・スクリーンで、しかもカラーで楽しめる作品だったことからカルト映画になった。

映画そのものが評価されることはなく、とくにヒットしたわけでもなかった。
それにもかかわらずアメリカ以外の国々、イギリスやフランス、イタリア、ドイツ、そして日本などの若者たちの一部には大きな衝撃を与えた。

テレビが普及していなかったその頃は、レコードやラジオで音楽に触れることができても、生でロックンロールを体験することはできなかった。
ところがこの映画のおかげでアメリカのロックンローラーやコーラス・グループが動く姿、演奏するシーンを”色つき”で見ることができたのだ。

ポール・マッカトニーが『ビートルズ「アンソロジー」』のなかで、リヴァプールの映画館で観た映画について語っている。

ぼくらは『女はそれを我慢できない』が好きで、ロックン・ロールの映画もありだと思っていた。
小品のアメリカ映画をよく観に行ったんだ。
予算が少なくてそれほどいい出来ではなかったかもしれないが、音楽が使われていたからいつも観に行ってた。


「ビー・バップ・ア・ルーラ(Be-bop-a-lula)」でデビューを果たしたばかりだったジーン・ヴィンセントが、この映画で大いに注目を集めた。



映画から誕生した新しいスターはエディ・コクラン、これが実質的なソロ・デビューとなった。
もともと製作サイドはロックンローラーの象徴としてエルヴィス・プレスリーを出したかったらしいが、要求されたギャラが高額すぎたのでエディが代わりに選ばれたという。

エディはロックンロールのスターという設定で、「トゥエンティ・フライト・ロック」をブラウン管のなかで歌った。

これが評判になってエディは翌年、「バルコニーに座って」をヒットさせてスターの座につき、1958年に「サマータイム・ブルース」を発表してロック史に名を残すことになる。



少年時代のポールがジョン・レノンと初めて会ったのは、1957年7月5日のことだったが、そのときに歌ってみせたのはジーンの「ビー・バップ・ア・ルーラ」とエディの「トゥエンティ・フライト・ロック」、それにリトル・リチャードのメドレーだったという。

どれも『女はそれを我慢できない』に関連していた曲で、ポールはそれをきっかけにしてジョンとともに活動することになり、ビートルズの物語が始まっていく。

映画が公開されてから10年以上も過ぎた1968年9月19日、イギリスのBBC2が〈ハリウッド・ミュージカル・シリーズ〉の一環として、初めてテレビで放映することになった。

ビートルズはその日、夕方からレコーディングを行っていた。
早めにスタジオに入って新しい曲を作り始めたポールは、ほかのメンバーが来る前に「バースデイ」という曲をすばやく書き上げた。

そして8時半までには全員でバッキング・トラックのレコーディングを済ませて、放映時間が近づくとスタジオから近いポールの家に向かった。
それからメンバーとスタッフ、夫人のパティ・ハリスンやオノ・ヨーコまで、一緒にテレビで流れた映画を鑑賞して楽しんだ。

スタジオに戻ったビートルズは明け方までセッションを続けて、わずか1日で「バースデイ」を完成させた。

その頃のビートルズは何かといがみ合うことも多かったが、この日はごきげんな映画を観る楽しみと、観終わってからのハイ・テンションが続いたためか、お互いにアイデアを出し合ってシンプルなロックンロール・ナンバーを仕上げたのである。




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