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伝説の起業家リチャード・ブランソン②〜ヴァージンを一新させたピストルズとの契約と悪評

2017.10.28

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リチャード・ブランソン──音楽ファンでこの名を知らない人はいないだろう。1970年代のレコード店やレコード会社を出発点に、80年代以降は航空、鉄道、金融、通信、飲料、化粧品、健康、映画、放送、出版、そして宇宙旅行といった分野へと事業を拡大。巨大企業集団ヴァージン・グループの会長としてビジネスや社会貢献活動に取り組むだけでなく、時には熱気球による冒険家として世界に旅立つことでも有名だ。その原点にはどのような風景があったのか。

前回 「伝説の起業家リチャード・ブランソン〜ヴァージン・レコード設立と『チューブラー・ベルズ』」では、ヴァージン誕生秘話とマイク・オールドフィールド『チューブラー・ベルズ』の成功によって飛躍する経緯を描いたが、その後どうなったのだろう?

1975年。ブランソン率いるヴァージンはより多くのアーティストと契約しようと躍起になっていた。しかし、ピンク・フロイド、ザ・フーといったビッグネームとの相次ぐ契約の失敗は、新興のレコード会社がまだ「二番目の候補」にしか過ぎないことを証明する結果となってしまった。それでは何の意味もないのだ。

「いくらだったら話にのっていただけますか」と、ローリング・ストーンズのマネージャーであるプリンス・ルパートにもアプローチをかけたことがある。「君たちに払うのは無理だろうよ。少なくとも300万ドルだね。とにかくヴァージンじゃ小さすぎるんだよ」と同情された。

そこでブランソンは注意を引くために「400万ドル出しましょう」と打って出た。すると、週明けの月曜に小切手を持参すれば真剣に検討すると言う。その日は金曜だった。時間がない中で何とか資金を調達して相手を仰天させたが、今度は「君たちは競売に参加したばかりなんだ」と告げられる。結局、このゲームに競り勝ったのはヴァージンではなくEMIだった。

私はそれ以上のお金を集めることはできなかった。失敗したことに失望したが、ルパートが喜んで受け入れたであろう300万ドルを500万ドルに増やしてあげたことで、私はストーンズにいいことをしてやったのだ。


翌年になると、本当に利益を生み出してくれるバンドと契約しなければと焦るようになった。マイク・オールドフィールド以外のアーティストは、すべて赤字だったのだ。そこでヴァージンは二つの選択に迫られる。一つはリスクを取らずに今のお金で生き長らえて小さな会社として継続していくか。もう一つは最後の資金を使って可能性に賭けるか。もちろん失敗すれば倒産だ。ブランソンは後者を選択した。

まずはダイアー・ストレイツという新進気鋭のバンドを狙った。契約書にサインをする前の夜、お祝いのためにお気に入りのレストランにバンドを招待した。すべての交渉は終わり、みんながリラックスし、レコード制作を楽しみにする最高の雰囲気が漂う。すると、食事の最後にレストランのオーナーが気を利かせたのか、マリファナが10本盛られた皿を持ってきた……翌朝。彼らはポリグラムと契約すると伝えてきた。何もかも決めていたブランソンは驚愕した。おまけに「理由は言えない」と接触を断られた。

10年後、彼らのことをある本で読んだが、これを説明する文章が載っていた。「ヴァージンはサインする前に我々を混乱させるためにドラッグを飲ませたので、ヴァージンとは契約しなかった」


76年11月末。ブランソンが悶々とした気持ちでオフィスで仕事していると、下のフロアから異常な曲が流れているのを耳にする。ヒステリックな声が「Anarchy in the U.K.」と叫んでいた。思わず階段を走り下りた。
「今のは何だったんだ?」
「セックス・ピストルズのシングルさ」

変化するためには、新しいイメージが必要だ。それには強烈なパンクバンドしかない。ピストルズが“一流”のEMIと契約していることを知ると、ブランソンはさっそく社長に伝言を残した。「もし“恥”を取り除きたいのなら、私にコンタクトしてください」と。すると先方は秘書経由で「EMIはセックス・ピストルズに関して大変満足しています」と電話で伝えてきた。

その日の午後、奇しくもピストルズはイギリス全土で大騒動を引き起こす。TV番組『トゥデイ』で司会者に仕向けられて放送禁止用語を連発したのだ。翌朝ブランソンが新聞を手に取ると、それは大問題となっていた。すると、早朝にも関わらずEMIの社長から直接個人的な電話が鳴る。「君はセックス・ピストルズとの契約に興味があると聞いているんだがね」

EMIに出向くと、ヴァージンに移籍させる合意を得たが、正式に決定するにはマネージャーのマルコム・マクラーレンの同意が必要とのことだった。紹介されると、マクラーレンは手を差しのべてブランソンにこう言った。「素晴らしい。今日の午後遅く、君のオフィスに寄るよ」

初対面の60秒以内で相手を信用するかどうか決める術を持っていたブランソンは、奇抜なマクラーレンを見た時にこの男とビジネスするかどうか訝った。案の定、マクラーレンはオフィスに姿を見せず、翌日になっても電話すらしてこなかった。

77年3月、ピストルズはA&Mと契約。バッキンガム宮殿の前で調印式が行われた。王室や資本家に悪態をつく4人のパンクスたちは完全にマクラーレンに操られていた。そしてこの直後、シド・ヴィシャスがやらかす。A&Mの社長室を叩き壊し、高級な机の上に嘔吐して去って行ったのだ。A&Mはブランソンにピストルズをお払い箱にするつもりだと言ってきた。「私らじゃ、まったく無理だ」

マクラーレンは7月の女王陛下即位25周年記念日までに「God Save the Queen」を発売したがっていたが、新しいレコード会社はなかなか現れなかった。ブランソンは以前のこともあったので敢えて連絡はしなかった。そこで「ビジネスマンになったヒッピー」と馬鹿にしていた相手に、マクラーレンはとうとう自ら歩み寄ってきた。交渉のテーブルは逆転。こうしてヴァージンは世間を騒がせるバンドと契約した。

マクラーレンはEMIやA&Mのように、ヴァージンも手を焼くことを期待した。そうすればまた巨額の解約補償金が手に入る。一方、ブランソンはショックも腹も立てなかった。過激な歌詞の「God Save the Queen」は当然の如く放送禁止となったが、チャートを駆け上がったのだ。さらに記念日当日には、テムズ川を上る観光船の中でピストルズは同曲を演奏して警察沙汰に。皮肉にもすべてがレコードを売るためのPRになっていた。

そして77年10月28日、セックス・ピストルズのデビューアルバム『Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols』がリリース。脅迫状や嫌がらせの手紙のように新聞の切り抜き文字を使った派手なアルバムジャケットは、ジェイミー・リードによるデザイン。自ら店舗網を持っていたヴァージンは、各店でこのインパクトあるレコードを宣伝するためにウインドーに大きな黄色のポスターを貼ることにした。


“ヴァージン”と“セックス”・ピストルズ。
これはもう運命的な組み合わせだったのかもしれない。



すぐにクレームが入り、店長が猥褻広告条例で逮捕。ポスターの撤去だけでなくアルバムの発売中止を脅される。ブランソンも昔同じようなことで逮捕されたことがあったので、その時の弁護士に連絡。
「警察は“Bollocks”(睾丸)という言葉を使用してはならないって言ってるんだ」
「いったいその言葉のどこが悪いというのかね。私の一番好きな言葉の一つさ」

“Bollocks”の正確な意味を定義付けられる人間が必要だった。そこでブランソンは大学の言語学の教授を探すことにした。ノッティンガム大学のジェームズ・キングズリー教授が見つかった。「それは酷い。“Bollocks”は18世紀の“牧師”のあだ名だよ。だいたい牧師ってのは説教の中でナンセンスなことばかり言うから、だんだん“ゴミ”という意味に変化していったのさ」

裁判で教授は“Bollocks”は睾丸とは無関係であること。牧師やゴミであることを丁寧に説明してくれた。検察側は聖職者の心証を害するのではないかと尋ねた。教授はセーターを脱ぐと、その下に聖職者が着るシャツを見せた。教授は実は“キングズリー牧師”としても有名だったのだ。裁判長は言い放った。「本件は棄却にふす」

ピストルズとの一連の出来事は、ヴァージンに着せられた古臭いヒッピーのイメージを一掃したかったブランソンの思惑通りになった。悪評判は有形資産。再びヴァージンの知名度が向上するだけでなく、パンクやニューウェーブのバンドが契約する「カッコいいレコード会社」の象徴になったのだ。新しい世代の若者たちが続々とアプローチをかけてきた。

セックス・ピストルズは全国的な“イベント”だった。民衆からの抗議に接しながら生活するのは、ワクワクするほど楽しかった。オスカー・ワイルドがこう書いている。「あれこれ言われるよりもっと悪い唯一のことは、何も言われなくなることである」ってね。




『ヴァージン―僕は世界を変えていく』

*引用・参考文献
『ヴァージン―僕は世界を変えていく』


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