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チェコで不滅のプロテスト・ソングとして歌われていたビートルズの「ヘイ・ジュード」と、国民的な歌手マルタ・クビシェヴァ

2018.04.06

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チェコスロヴァキアでは1968年の初頭から共産党第一書記のアレクサンデル・ドプチェクの指導の下で、知識人や学生を中心に民主化運動が展開された。

ドプチェクは3月に検閲制度を廃止し、国民に言論と芸術表現の自由を保障した。
ついで4月には新しい共産党行動綱領にて、「人間の顔をした社会主義」を目指すことが打ち出された。

これを受けて社会のあり方や政治についての議論ができるようになり、新たな政党の結成の動き現れる一方で、若者たちが密輸入したレコードで非合法に聴いていたビートルズの音楽などがラジオから流れ始め、首都プラハの町ではミニスカートなどの西欧風のファッションが見られるようになった。

そして6月には知識人らが署名した「二千語宣言」が発表されて、民主化路線を支持する声が高まって自由化を求める動きに拍車がかかった。
そうした現象と急速な変革の運動は「プラハの春」と呼ばれたが、共産主義国の同盟を堅持しようとするソ連のブレジネフ政権は、8月20日から21日にかけてワルシャワ条約機構5ヵ国軍による侵攻で軍事弾圧に踏み切った。

このチェコ事件によってプラハの春は踏みにじられて、20万人を超えるともいわれた軍隊がプラハの中心部を制圧し、放送局を砲撃してドプチェクらの指導者を連行した。
それによってわずか数ヶ月で、チェコはふたたび自由にものを言えない国に戻ってしまう。

そのときに身の危険から姿を隠さねばならなかった女性のスポーツ選手が、1964年の東京オリンピックで女子体操の個人で三つの金メダルに輝き、その実力と美貌から“東京五輪の名花”とたたえられたベラ・チャスラフスカだ。



国際的な世論の高まりもあってベラは準備不足ながらも、その年の10月に開催されたメキシコ・オリンピックに出場した。
観客の熱狂的応援にも後押しされて、跳馬と段違い平行棒、床競技の3種目で見事に優勝を飾った。
そして最高栄誉にあたる個人総合でも、東京五輪に続いて連覇を果たして2大会連続で喝采を浴びた。

しかしオリンピックが終わって帰国したベラは「二千語宣言」への署名撤回を拒否し続けたために、反体制の危険人物と見なされて、20年にわたって政府の監視下に置かれ続けることになった。

そんな激動の1968年に大ヒットしたのがTVドラマ『ルドルフ3世への歌』の挿入歌として作られた、マルタ・クビシェヴァが歌った「マルタの祈り(Modlitba pro Martu)」である。

この曲でスターになったマルタもまた表現の自由を求めて、ソ連に制圧されたプラハで歌手として抵抗の姿勢を明確にしていく。
ちょうどその頃にビートルズの18枚目のシングル「ヘイ・ジュード」が発売されて、アメリカでは9月28日から9週間連続で全米チャート1位の大ヒットになった。

「ヘイ・ジュード」を聴いたマルタがチェコ語でカヴァーすることにしたのは、アルバム『ソング・アンド・バラード』の制作の準備を進めていた時だった。
そして1曲目にその美しくも力強いバラードを入れて、チェコ国民に勇気と希望を与えたいと思ったのだ。

ジュード あなたには歌がある
みんながそれを歌うと あなたの目が輝く
そしてあなたが静かに 口ずさむだけで
すべての聴衆はあなたにひきつけられる

あなたはこっちへ 私は向こうへ歩き出す
でもジュード あなたと遠くはなれても
心は あなたのそばに行ける


チェコスロヴァキアでは長きにわたった抑圧の歴史のなかで、民族の知恵として培われた言葉による抵抗という伝統があった。
教養のある人たちは書かれた文章の行間や修辞から、ほんとうに伝えたいニュアンスを受け取って事実や真実を知り、それを語り継いできたのだ。



自由のシンボルとして「ジュード」という主人公が歌われる、チェコ語の「ヘイ・ジュード」は1年後の1969年10月にレコード化されて大ヒットした。
だが、マルタの歌が持つ影響力の大きさを知っていた当局はマルタに出頭命令を下し、「ヘイ・ジュード」の歌詞についての尋問を行い、「二千語宣言」への署名撤回を迫った。

マルタがそれに屈しなかったことから1970年1月、表現活動を禁止されて音楽界からの永久追放が決定する。
それまでに出したすべてのレコードは発売禁止になり、所持することも禁じられて没収された。

それでもマルタの「ヘイ・ジュード」は不滅のプロテスト・ソングとして、チェコの人々に歌い継がれていった。

今 私はなす事もなく あなたの歌を聴く自分を恥じている
神様 私を裁いてください
私は あなたのように歌う勇気がない

ジュード あなたは知っている
口がヒリヒリ 石をかむようつらさを
あなたの口から きれいに聞こえてくる歌は
不幸の裏にある「真実」を教えてくれる


ふたたびマルタが人前に登場したのは1989年に、共産党政権が崩壊した後のことである。
チェコの民主革命は非暴力のもとで穏やかに行われたことから「ビロード革命」と称されたが、その原動力となったのが「ヘイ・ジュード」に象徴される、文化的方法だったといわれる。

とりわけ自由への希求を歌と音楽に託して、歌手生命が絶たれることをわかった上でマルタがとった行動と勇気は賞賛に値する

そしてベラ・チャスラフスカもまたビロード革命によって名誉を回復し、体操界に復帰してチェコ・オリンピック委員会会長などを務めてスポーツ発展に尽力した。
ふたりの不屈の女性がスポーツと音楽で存在したことの意味を、チェコの上院議員ペトル・ピッハルトがこう語っている。

「チャスラフスカの意味についていえば、頂上を極めた体操選手だったということ以上に、彼女の存在自体により大きな意味があったと私は思っています。正常化時代、チェコ国内には人生を犠牲にした無数の人々がいた。その人たちにとって彼女は大きな支えであった。当局は、抵抗者のなかでもシンボル的な人々を目の敵にしていじめ抜いた。けれども屈しなかったものがいた。チャスラフスカしかり、歌手のマルタ・クビシェヴァしかりです。・・・」












 

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