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ロシア文学からアメリカで生まれた「花はどこへ行った」が日本で歌い継がれてきた歴史をたどる

2018.04.20

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今は幻となった満州国で最大の都市だったハルビンは、帝政ロシアが開発した多民族が暮らす国際都市だった。
その地で生まれた加藤登紀子は、戦後日本に帰ってからも「暗い夜」「草原」「波止場の夜」といった亡命ロシア人の歌を聴いて育ったという。

そんな彼女が東京大学に在学中だった1965年に日本アマチュアシャンソンコンクールに応募し、優勝したことのご褒美で初めてシャンソンの国フランスへ行った。
ちょうどその頃に日本で流行していたのが、キングストン・トリオが歌った「花はどこへ行った」である。



これを作詞作曲して歌ったピート・シーガーは日本軍と戦ったサイパン島の戦場から帰還した後、反戦へのメッセージをフォークソングに込めて歌い続けてきた。

しかし芸術活動に携わる共産主義者を摘発・追放する「赤狩り」が始まったことで要注意人物とみなされて、1955年にはスパイ容疑で非米活動委員会に召喚される。
シーガーはそこで転向することなく証言も拒否したために、有罪となって音楽活動が出来なくなった。

そうした不自由な状況に置かれていたシーガーだったが、ロシアのミハイル・ショーロホフによる小説「静かなるドン」のなかに、平和を願う歌のヒントを見出す。
シーガーはコサックの民謡にあった「葦の葉はどこへ、少女はどこへ、男はどこへ、戦争へ」という数行をもとにして、葦を花に変えることで新たな反戦歌の「花はどこへ行った」を誕生させていく。

〈参照コラム〉Where have all the flowers gone?花はどこへ行った①〜ピート・シーガーが思い描いた“理想の世界”とは?

その頃からアメリカで民衆が歌い継いできた歌の数々、フォークソング(民謡)を見直そうといった機運が高まり、フォークシンガーやグループが出現してきた。
こうして1950年代後半にアメリカの「フォークリヴァイヴァル運動」が始まり、政治的な信条や社会の動きに結びついたプロテストソングなどから、素朴なラブソングや舟乗りの唄までが歌われて、フォークソングは洗練されつつポピュラー化していった。

1959年から「ニューポート フォーク フェスティヴァル」が開催されると、60年代にはジョーン・バエズやボブ・ディランが登場して脚光を浴びる。
こうした動きは日本にもわずかながら伝播して、大学生を中心に支持されてフォークソングの人気が高まった。

それが1963年から64年にかけてのことで、なかでも日本で人気が高かったのは「花はどこへ行った」だった。

まだオリコンのチャートもなかった時代のことでさまざまな説が見られるが、日本で最初にカヴァーしたのは誰なのかについて調べてみた。

八木誠の監修による大著「洋楽ヒットチャート大事典」(小学館)によれば、日本で最もヒットしたのはキングストン・トリオのヴァージョンのようだ。
アメリカでは1962年にヒットしていたが、その2年後に年間TOP100で2位にランクされている。

この年にはザ・ピーナッツや梓みちよも日本語でカヴァーしており、ラジオではピーター・ポール&マリーのヴァージョンも流れていた。

そして1965年になるとレノン・シスターズによる「花はどこへ行った」が、洋楽チャートを上昇していった。
さらには邦楽でも雪村いづみ、園まり、デューク・エイセスの日本語カヴァーが、音楽雑誌「ミュジックライフ」誌の集計でランキングに入っている。


ひとつの楽曲が同じ時期に洋楽と邦楽の両方で、何人ものグループや歌手によって歌われていずれもヒットしていたことから、「花はどこへ行った」がどれほど人気があったのかが伺える。

なお当時の音楽雑誌「ミュージックライフ」1964年5月号には、「花はどこへ行った」の音楽著作権を管理している東芝音楽芸能出版株式会社が、歌詞の広告を出稿している。
これは独自の歌詞でカヴァーすることに注意を促し、オフィシャルの日本語詞を尊重するようにとアピールしながら、楽曲を広める意図だったのだろう。

そしてこの広告には、”Copyright 1960 by Fall River Music Inc.,”とあり、”唄 デューク・エイセス (東芝レコード)”と書いてあった。
そこから推測すると、日本で最初に「花はどこへ行った」のレコードを出したのは、東芝レコードのデューク・エイセスだった可能性が高い。

さて、加藤登紀子はフランス旅行から帰国後、在学中のままポリドール・レコードから歌謡曲を歌う歌手としてデビューしている。
デビュー曲「誰も誰も知らない」を手がけたのは、女性ディレクターの草分け的存在の松村慶子である。
彼女は園まりに「花はどこへ行った」を歌わせた人物でもあった。

まだ無名だった作詞家のなにかし礼を抜擢した意欲作の「誰も誰も知らない」は、残念ながらまったくヒットしなかった。



しかし次に松村が企画した「赤い風船」は、交通事故で亡くなった子供をテーマにした内容も評価されて、加藤登紀子に日本レコード大賞の新人賞をもたらす。

やがて自作自演で「ひとり寝の子守唄」を大ヒットさせた加藤登紀子は、日本で最初の女性シンガー・ソングライターとして1970年代を迎えた。

自身の創作活動と並行して、日本の「知床旅情」、アルゼンチンの「灰色の瞳」、フィリピンの「ANAK息子」、ラトビアの「百万本のバラ」、フランスの「愛の讃歌」と、、加藤登紀子は世界のスタンダード・ソングをレパートリーにして歌い継いでいく。
その中には、自分で訳した日本語詞による「花はどこへ行った」もあった。

そしてデビューから半世紀以上が過ぎた2018年、加藤登紀子は自らの歴史を振り返りながら、未来へと歌いつづける節目のコンサート『Tokiko’s History 「花はどこへ行った」』を開催する。
公演の案内には、こんな言葉が添えられていた。

悲しみの中で世界は、愛を求め続けている。
ポーランドのパルチザンソング「今日は帰れない」、
ブルガリアの望郷の歌「モヤ・ブルガリア」、
パレスチナの叫び「ユダヤの友へ」、、、
めぐりめぐる世界の中で、限りなく未来へと、人は繋がっていく。
これからも歌いつづける登紀子の地図が見えてきた。


ピート・シーガーによって「静かなるドン」の中に見出されたメッセージの種子は、海を越えて日本にも伝わって花を咲かせた。
その後に加藤登紀子、忌野清志郎、Mr.Childrenへと、それぞれの歌詞でメッセージが歌い継がれて、現在に至っている。







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