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追悼・井上堯之②~「こんな親友を持てたこと、幸せに思うよ」

2018.05.12

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萩原健一(ショーケン)が俳優として圧倒的な存在感を放つようになった後、シンガーとしての活動を復活させたのはソロ・アルバム『惚れた』をリリースした1975年だった。
そのアルバムには脚本家の倉本聰が気に入ってテレビドラマ『前略おふくろ様』のモチーフに使った「前略おふくろ」や、フォーク・シンガー河島英五のカヴァーだった「酒と泪と男と女」などが収録されていた。

落ち着いた語り口の作品が並んで和風のテイストが感じられるアルバムには、存在感のある役者が歌っているといった趣があった。
そしてシングル・カットされた「酒と泪と男と女」がヒットしたことによって、ショーケンは思うようにアルバムを制作できる環境を手に入れることになる。



俳優の仕事と並行しながら音楽面でも意欲作に挑んでいくショーケンを支えたのが、PYG結成時からの仲間だった井上堯之である。
1977年に出た大野克夫との共同プロデュースによる『Nadja~愛の世界』は、A面が井上堯之の作詞作曲による楽曲で、B面が大野克夫作品と明確に分かれていた。

そこから1978年の『Nadja2~男と女』、1979年の『Nadja3~エンジェル・ゲイト』と、Nadja(ナジャ)3部作が続いた。

その一方でショーケンはブルース・ロックを追求していた柳ジョージとレイニーウッドを見出し、彼らを率いる形で1978年から79年にかけて全国ツアーを行って各地で熱狂を巻き起こす。

自分が企画したドラマ『祭ばやしが聞こえる』の主題歌に柳ジョージを抜擢したのは、ギターの腕前だけではなくしゃがれた声のヴォーカルの魅力に気づいたからだ。
そしてレイニーウッドのセカンド・アルバム『WEEPING IN THE RAIN』に入っていたタイトル曲を、自分が主演するドラマ『死人狩り』でテーマソングに使うことにした。

ショーケンはそのとき、英語だった歌詞を日本語にして歌うようにと柳ジョージに指示した。

「英語じゃダメだって。日本語だけど英語で歌っているようなフィーリングで歌ってくれ。騙されたと思ってやってみろ」


1978年12月にシングル・カットされた「雨に泣いてる」はヒットし、それによって柳ジョージとレイニーウッドがブレイクを果たす。
すぐれた才能を見つけてその力を引き出して、さらに別の才能とも結びつけるショーケンによって、井上堯之と柳ジョージによる「時は流れて」が誕生する。

「時は流れて」

作詞:柳ジョージ 作曲:井上堯之

時の流れに身をまかせ
閉ざした心の春だけが過ぎてゆき
酔いどれた世界に
にがかった涙を捨てよう
これからは翔びたとう
新しい人生の真実を求め二人して


ショーケンはライブを収録したアルバム『熱狂雷舞』によって、唯一無二のロック・シンガーとして評価を受けるようになった。


井上堯之にショーケンから電話がかかってきたのは、『熱狂雷舞』から10年の時が流れた1989年のことである。
ちょうど時代が平成になったところで、48歳だった井上堯之の音楽家としての活動は充実していた。
だが、どこかで行き詰まりを感じ始めつつあったことは、自伝に書かれた次の行からも伝わってくる。

突然ショーケンから電話がありました。
「一緒にツアーしよう」
「話が嬉しいけど、ギターは何年も弾いてないからムリだよ」
「ギターなんか弾けなくたっていいんだよ。ただ一緒にいてくれればいいんだよ」
「本当に、それでいいのかい?」
「オレと堯之さんのツアーなんだから、いてくれなくちゃ困るんだよ」
強引なショーケンのお誘いでした。でも、その言葉からは、彼の温かさと優しさが伝わってきます。
「じゃぁ、やるよ。ありがとう!」


井上堯之はこうして久しぶりにステージに立ったことで、気心の知れた仲間との演奏を楽しむことができたという。
しかしツアーの最終日、9月21日の渋谷・シアターコクーンでの公演終了後、楽屋で打ち上げのためにメンバーやスタッフが集まった席でこう宣言する。

「今日でギターを弾くのは最後です。本当にありがとうございました」


それまでは和気あいあいとしていた空気が一変し、どよめきに変わった時に怒鳴ったのはショーケンだった。

「冗談じゃねー!もう歌ができないじゃないか!」


しかし、井上堯之はそれ以上は何も言わず、泣きながらショーケンに謝ってその場を立ち去った。
残されたショーケンも、「じゃあ、おれも歌はやめた!」と宣言するしかなかった。

その時の心境を井上堯之は自伝のなかで、このように綴っていた。

ショーケンにはたいへん申し訳なかったけれど、そう言わざるをえなかった自分がいて、嘘はつけませんでした。
結局、ショーケンはその言葉通り、歌を封印してしまいました。
そして’03年11月に私と再び共演するまで、一度も、誰とも歌うことありませんでした。


井上堯之はなぜその場で、そんなこと言ったのか? 
それは、本当にこれから何をすべきか、本当に音楽なのかということに、根本的な疑問を抱えていたからだった。

今までは恵まれてきてありがたいことだけれども、「人間の悲しみを表現した音楽」が書けない自分がいることに気がついたからです。
自分が若い頃に経験した悲しみやひもじさのような、あのリアリティがないのです。
悲しみを実感できない表現者など、偽物でしかありません。


それから2年間、井上堯之は仕事を一切することなく、家族とも離れてただただ自分を見つめ直す生活に入った。
だが約束の2年が過ぎて50歳の誕生日を迎えても、何も見つけられずに終わったという。

そして家に戻った自分を待っていたのは、受験を控えた息子が大学に入るための入学金がないという現実だった。

そこで私は初めて家族のために働く決心をして、現実的に生きていこうと思いました。甘ったれもいいところです。夫として、親として家族のために生きよう。そしてそのために初心に戻って、ギタリストとして生きることを決めたのです。


井上堯之が再びショーケンに招かれて同じステージに立ったのは、それから11年後、ショーケンが歌を封印してからは13年目のことである。
そのときに繰り広げられた『エンター・ザ・パンサー ライブツアー』について、井上堯之はショーケンとの対談でこのように述懐していた。

井上:(ツアーの)現場は、この13年間俺が何をしてきたのかをショーケンに伝える場であったんだよ。お客じゃなかった。これが本心だよ。でも、キャッチしてくれたよ。
萩原:うん。
井上:13年間、真剣に生きてきたことをわかってくれたと思う。俺は何も言わなかったけど、ショーケンが用意してくれた出番、衣装、それはサイコーだったから。
萩原:‥‥‥(微笑みを浮かべ)。
井上:こんな親友を持てたこと、幸せに思うよ。


こうしたエピソードを知ったうえで当時のライブ映像、「ラストダンスは私に」のアコースティック・ギターを弾く井上堯之や、「大阪で生まれた女」のラストの2人を目にすると、なんとも感慨深いものがある。

あらためて冥福を祈りたい。合掌。



本コラムは『追悼・井上堯之①~好むと好まざるとに関わらず作家としてスタートしたのは萩原健一が奮い立たせてくれたからだった』に続くものです。

〈参考文献〉井上堯之著「スパイダース ありがとう!」(主婦と生活社)、萩原健一著「ショーケン」(講談社)

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