「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

Extra便

追悼・西城秀樹──ヒデキのロックなハートに火をつけた名ギタリスト

2023.05.14

Pocket
LINEで送る

1955年4月、広島県広島市に生まれた西城秀樹(本名:木本龍雄)。音楽好きの父親や兄の影響もあって小さい頃から洋楽を慣れ親しみ、ジャズスクールでドラムも学んでいたという彼は、地元では名の知れた「ロック少年」だった。小学5年生で時に兄と一緒にバンドを結成、ドラマーとして参加するだけでなくコーラスも担当し、その頃から歌唱力でも一目置かれていたという。

ちなみに地元のロック喫茶や米軍岩国基地のライブハウスなどに出演していた頃、同じ広島在住だった9歳年上の吉田拓郎とも接点があった。

「(地元広島のバンド在籍時に)拓郎さんとも一緒にやらせてもらったことがあって、歌手になってから拓郎さんに会ったら、『あのちっちゃかった木本君だろう』と言われたことがあります。その縁で曲を書いてもらいました(1982年リリース『聖・少女』)」(西城秀樹)*1


ジェフ・ベックにはじまり、ジャニス・ジョプリン、ジェイムス・ブラウン、ロッド・スチュワート、ジミ・ヘンドリックス、シカゴ……と、洋楽から大きな影響を受け、16歳の時にはレッド・ツェッペリンの広島公演も目撃していたという西城だが、中でも大きな衝撃を受けたのは映画『ウッドストック』だった。

「ウッドストックはあらゆるフォーク&ロックが混在したイベント、野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」という西城の願望は、1972年の歌手デビューからわずか2年後の1974年、日本人歌手では初のスタジアムライブとなる大阪球場での野外コンサートとして実現する。大阪球場での公演はその後10年連続で開催され、真夏の野外ライブはヒデキの代名詞となる。

デビュー当初からロックンロールやリズム&ブルースの名曲を数多くカバーしてきた西城。憧れのロックスターたちから受けたインスパイアを、ステージ演出やパフォーマンスにも積極的に取り入れては、自らの個性に昇華していった。そんな彼の熱いロック魂は、サウンド面にも影響を及ぼしていった。

「お抱えのバンドが欲しかったんですよ。萩原健一さんや沢田研二さんのバックには井上尭之バンドがいたじゃないですか。あとは演奏にフルバンド(歌番組などで伴奏するビッグバンド)感よりもロック色を強く出したかった」(西城)*2


1974年2月、日本武道館で行われたロッド・スチュワート&フェイセズの来日公演を観に来ていた西城は、前座として出演したジョー山中のバックで演奏する若いギタリストに目を奪われた。それが、後にSHŌGUNを結成する芳野藤丸だった。

「とにかくギターがカッコ良かったですね。ルックスも、スラッと細くて背が高くて」(西城)*2


芳野は、1951年生まれで当時22歳。つのだ☆ひろのバンドで頭角を現し、その後は桑名正博、ジョー山中、もんたよしのりなどのサポートや、スタジオ・ミュージシャンとして活動していた。

武道館でのライブで芳野を目撃した数日後、二人は偶然に出会う。芳野のギターが記憶に残っていた西城は、「俺のバックをやってくれませんか?」と彼に直談判。芳野が若手ミュージシャンを集めて〈藤丸バンド〉を結成することになった。藤丸バンドは、1975年5月リリースのシングル「恋の暴走」のレコーディングからサポートを開始。土日は各地でコンサート、その他にもテレビの音楽番組の収録やレコーディングなど多忙な日々を送った。

1975年7月には富士山麓の会場に巨大なステージを設置した、大掛かりな野外コンサートを開催。このライブを皮切りに「全国縦断サマーフェスティバル」と題して各地で公演を重ね、大阪球場でのファイナルまで約1ヶ月間で5000kmを駆け抜ける全国ツアーを開催。このツアーの模様は、ドキュメンタリー映画にもなっている。

「スタジオ・ミュージシャンを連れてツアーに出るっていうのは、すごくお金がかかるんですけどね(笑)、そこはワガママいわせてもらいました」(西城)*2


「秀樹の事務所には楽器を買い揃えてもらったり、今思うとかなり良くしてもらったよね(中略)球場コンサートのときは、僕はマーシャルのアンプの2段積み6台をひとりで使ってた」(芳野藤丸)*2



「当時はハードロックがやりたかったんですね。なのに秀樹のバックバンドをきっかけに、ザ・芸能界のど真ん中に放り込まれた感じで、それはそれですごく興味深かったかな。ヒデキにグランド・ファンク・レイルロードの「ハートブレイカー」をカバーしようと言ったのは僕だから、秀樹の音楽にロックのエッセンスを入れることはできたのかなって思いますね」(芳野)*2


自身のバックバンドを得て、カバーで取り上げる楽曲もハードロックやプログレ、ディスコと、さらに挑戦的な側面も魅せていくようになった西城秀樹。1978年にリリースしたオリジナル・アルバム『ファースト・フライト』では、収録曲の半分を西城自身が、もう半分を芳野藤丸が作曲を手掛けた。レコーディング・メンバーも芳野を筆頭に、編曲とキーボードには大谷和夫、ドラムに山木秀夫らが参加。このメンバーからOne Line Bandが生まれ、SHŌGUNへと発展していく。


1979年2月にリリースされた西城の28枚目のシングル「ヤングマン(Y.M.C.A.)」が国民的なヒットに。同年4月に発表されたSHŌGUNのデビュー・シングル「男達のメロディー」も大ヒットを記録。SHŌGUNとしての活動が忙しくなった芳野は、西城のサポートから離れることとなった。

「僕にとって秀樹は、自分のバンドを作り、武道館をいっぱいにして、初めて大阪球場や後楽園球場でコンサートをやり、舞台を飛び回ってクレーンに乗ってパフォーマンスをして、海外のヒット曲を日本語でカバーするなど、当時多くの改革をした大スターだと思っている」*2
「秀樹はヘタなロックよりロックしていて、いやロック以上だなって。エンターテイナーとして素晴らしかった」(芳野)*3


大病を患って身体が思うように動かなくなってもなお、生涯現役を貫き通そうとした西城秀樹。日本中を虜にした絶唱と、嵐のような情熱は、いつまでも人々の心の中で燃え続けることだろう。

『芳野藤丸自伝 Lonely Man In The Bad City』

『芳野藤丸自伝 Lonely Man In The Bad City』
芳野藤丸・著

(DU BOOKS)


『芳野藤丸自伝 Lonely Man In The Bad City』

『ブロウアップ ヒデキ 豪華版(DVD)』

(松竹)


西城秀樹『LIFE WORK~ニュー・レコーディング・スーパー・ベスト』

西城秀樹
『LIFE WORK~ニュー・レコーディング・スーパー・ベスト』

(BMGビクター)



デビュー25周年を記念して芳野藤丸が全曲編曲・プロデュースを手掛けた新録ベスト・アルバム(1996年発表)




引用
*1:読売新聞インタビュー 2011年
*2:『芳野藤丸自伝』芳野藤丸・著(DU BOOKS) 2017年9月刊
*3:夕刊フジ「西城秀樹さん追悼 盟友・ギタリスト、芳野藤丸が明かす秘話と秘蔵写真『ヘタなロックよりロック。ロック以上だった』」 2018年5月21日

*初回投稿時、内容に不備があったため記事の内容を一部修正しました(2018.5.31)。

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[Extra便]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ