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テレビ出演で猟犬に向かって「ハウンド・ドッグ」を歌わせられたエルヴィスの屈辱

2018.09.09

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1950年代半ばのアメリカでは一般家庭にテレビの普及が進んでいたので、エルヴィスのマネージメントを手がけるパーカー大佐は、新しいメディアの影響力を最大限に利用しようと考えた。
最初のテレビ出演が行われたのは1956年1月28日、メジャーのRCAに移籍して最初のシングル「ハートブレイク・ホテル」が発売された翌日のことだ。

エルヴィスとバンド・メンバーたち、ギターのスコティ・ムーア、ベースのビル・ブラック、ドラムのDJフォンタナが夜の遅い時間にマンハッタンの劇場に入ったとき、外は雨がひどく降っていた。
当時のエルヴィスは深南部の都市だったメンフィスのローカル・スターではあったが、ニューヨークではほとんど知られていなかった。

CBSが全米ネットしていた『ステージ・ショウ』はドーシー・ブラザーズがホストを務める番組で、公開生放送の劇場には観客がまばらにしか入っていない状態だった。
客席に座っていたのは寒さに震えている休暇中の兵士とか、土曜の夜なので何が何でも街へ繰り出さねばならないと思っていたような人たちであったという。
出演料は1回につき1250ドルだったが、その日から6週連続で出演したことによってエルヴィスの人気は急速に上昇していった。

(なおその時の映像は下記のエルヴィス公式サイトで公開されている)http://www.elvis-presley-the-king.de/neu/elvis-in-der-dorsey-brothers-stage-show-1956/

オンエアから1週間後、音楽専門誌のビルボードが「ハートブレイク・ホテル」についてこう伝えている。

このレコードの売り上げが雪だるま式に増えつつある。非常に売れている地域がいくつかあり、それによると南部全域ではもちろんだが、西海岸でもエルヴィスが強烈にヒットしている事実がわかった。


だがエルヴィス本人は当時、そのような変化を全く知らないままでいたらしい。
とにかく仕事のためにただひたすら自動車で走って、毎週土曜日には必ずニューヨークへ行ってテレビに生出演しなければならなかった。
行動をともにしていたギタリストのスコティが、1956年前半の日々についてこう語っていた。

私たちは、ほとんど毎日、働きづめだった。仕事のある町へ車でいき、ホテルの部屋に入ってシャワー浴びてから、あるいはそのまま会場の公会堂や映画館へいき、ショーが終わるとすぐに車にのって次の仕事がある町へ向かう。新聞なんかまるっきり読まなかった。自分たちが大きく書きたてられていることなど、少しも知らなかった。レコードはよく売れているとかきかされていたけれども、よく売れるのはすでにはじめてではないし、ほんとに売れてはいてもおかねはぜんぜん入ってこなかった。ラジオもあまり聞かなかった。夜通し車を飛ばし、生の時間まで昼の間ずっと眠ると言う生活だったから、夜中にはラジオがあまりやってなくて聞けないのだ。


パーカー大佐は次に視聴率の高い西海岸発の全米ネット番組、『ミルトン・パール・ショウ』にエルヴィスを出演させた。
4月3日に放送されたときの推定視聴者数は4000万人ともいわれるが、エルヴィスはここから一気にロックンロールのスターになっていった。


そして「ハートブレイク・ホテル」が4月21日には全米ナンバーワンになり、およそ2ヶ月間もトップの座をキープして、人気を不動のものとする。
続く6月5日の放送でエルヴィスは「ハウンド・ドッグ」の後半に突然、テンポを落としていつも以上にセクシーさを強調したパフォマンスで歌った。
ところがその放送を見ていた保守的な大人たちの間から、「歌う動作があまりにも下品で猥褻だ」と怒りの声が上がり、マスコミが取り上げて物議をかもした。
ニューヨーク・タイムズ紙のテレビ評論家ジャック・グールドは、エルヴィスを非難するためにこんな言葉で貶めていた。

ミスタ・プレスリーには、これといって歌唱上の才能は認められない。
得意とするのはリズム・ソングであり、うたい方は、べつにどうということもないあわれっぽい泣き声でわめくだけのものだ。
フレージングと呼べるようなものがあるとするならば、それは、歌の素人が風呂につかりながらうたうあの月並みな下手さかげんでしかない。
聞かされる人はまったく耐えがたい退屈をおぼえ、かつてのパラマウント劇場で熱狂的な日々をつくりだしたフランク・シナトラほどの才能はどこにもなく、ジョニー・レイのようなエモーショナルなすさまじさも、みごとに欠いている。


大多数の大人たちはエルヴィスの才能に気づかないまま、テレビ出演のたびに「体の動きが単純下劣」とか、「ストリップまがいだ」と非難した。
少年少女や若者たちに熱狂的に支持されたことで、不安を覚えた親の世代からエルヴィスをバッシングする動きが起こり、性教育や国家利益の話にまで広がって社会問題にまでなっていった。

保守的な州ではロックン・ロールのコンサートを禁止する動きも強くなったが、その一方でエルヴィスの人気を利用したいテレビ局は、積極的に番組で紹介している。
NBCの『スティーブ・アレン・ショー』は1956年7月1日、タキシードを着せたエルヴィスの前に本物のハウンド・ドッグを置いた。
その犬に向かって「ハウンド・ドック」を歌わせて、冴えないユーモアを引き出すという演出だった。

しかしエルヴィスは嫌がらせとも取れるような仕打ちにも、屈辱を押し隠して犬を可愛がりながら、最後まで歌いこなした。
『スティーブ・アレン・ショー』は55パーセントもの視聴率をはじき出し、ライバル視していたCBSの「エド・サリヴァン・ショー」に大差をつけた。
ここでの出演料は7500ドルにまで上がっていた。

ただし、エルヴィスはこのときに初めて、「自分をテレビに売った」と感じたと述べている。
そうした屈辱の翌日に、エルヴィス自身がプロデュースする形で、「ハウンド・ドッグ」がレコーディングされた。
発売直後から大ヒットになり、8月18日から11週間にわたって全米ナンバーワンに輝いた。



「エルヴィスなんか絶対に出演させない」と公言していたエド・サリヴァンだったが、ここに来てに無視するわけには行かなくなり、パーカー大佐と交渉して1956年9月9日から3回の出演契約を取り付けた。
このときにサリヴァン側は1回につき1万ドルという破格の出演料を提示したが、パーカー大佐は「エルヴィスの人気は、今やロケットのように急上昇している」と、合計で5万ドルを要求した。
どうしても最高視聴率を叩き出したかったサリヴァンは、思い切って5万ドル払う決断をすることになる。

9月9日に放送された1回目の『エド・サリヴァン・ショー』の出演で、エルヴィスは「ドント・ビー・クルーエル」と「ラヴ・ミー・テンダー」、「レディ・レディ」の3曲を歌った。
視聴率は番組始まって以来最高の82.6パーセントを記録、それは5400万の人たちが見たと判断できる数字だった。
これは1964年にビートルズが出演するまで破られることはなかった。


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