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テレビを利用したプロモーションとその反動~犬を前に置いて「ハウンド・ドッグ」を歌ったエルヴィス・プレスリー

2018.06.28

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1950年代半ばのアメリカでは一般家庭にテレビの普及が進んでいたので、エルヴィスのマネージメントを手がけるパーカー大佐は新しいメディアの影響力を最大限に利用しようと考えた。
最初のテレビ出演が行われたのは1956年1月28日、メジャーのRCAに移籍して最初のシングル「ハートブレイク・ホテル」が発売されたの翌日のことだ。
エルヴィスとバンド・メンバーたち、ギターのスコティ・ムーア、ベースのビル・ブラック、ドラムのDJフォンタナが夜の遅い時間にマンハッタンの劇場に入ったとき、外は雨がひどく降っていた。
当時のエルヴィスは深南部の都市だったメンフィスのローカル・スターではあっても、ニューヨークではまだほとんど知られていなかった。

CBSが全米ネットしていた『ステージ・ショウ』はドーシー・ブラザーズがホストを務めるの番組だが、公開生放送の劇場には観客がまばらにしか入っていない状態だった。
しかも座っていたのは寒さに震えている休暇中の兵士とか、土曜の夜だというので何が何でも街へ繰り出さねばと思っていたような人たちであったという。

エルヴィスたちは「シェイク・ラトル・ロール」から「フリップ・フロップ&フライ」をメドレーで披露してみせた後に、「アイ・ガット・ア・ウーマン」で軽快に締めくくって無事に初日を終えた。
その日から6週連続で出演したことによって、エルヴィスの人気が急速に上昇していく。
出演料は1回につき1250ドルだった。

(なおその時の映像は下記のエルヴィス公式サイトで公開されている)http://www.elvis-presley-the-king.de/neu/elvis-in-der-dorsey-brothers-stage-show-1956/

オンエアから1週間後、音楽専門誌のビルボードが「ハートブレイク・ホテル」についてこう伝えた。

このレコードの売り上げが雪だるま式に増えつつある。非常に売れている地域がいくつかあり、それによると南部全域ではもちろんだが、西海岸でもエルヴィスが強烈にヒットしている事実がわかった。


だが当のエルビス本人はそのような変化を、全く知らないままでいたらしい。
エルヴィスずっと行動をともにしていたギタリストのスコティが、1956年の前半の日々についてこう語っている。

私たちは、ほとんど毎日、働きづめだった。仕事のある町へ車でいき、ホテルの部屋に入ってシャワー浴びてから、あるいはそのまま会場の公会堂や映画館へいき、ショーが終わるとすぐに車にのって次の仕事がある町へ向かう。新聞なんかまるっきり読まなかった。自分たちが大きく書きたてられていることなど、少しも知らなかった。レコードはよく売れているとかきかされていたけれども、よく売れるのはすでにはじめてではないし、ほんとに売れてはいてもおかねはぜんぜん入ってこなかった。ラジオもあまり聞かなかった。夜通し車を飛ばし、生の時間まで昼の間ずっと眠ると言う生活だったから、夜中にはラジオがあまりやってなくて聞けないのだ。お客の反応が大変なものだったが、もう1年も前からそうなので、珍しいことではない。


とにかく仕事のためにただひたすら自動車で走って、毎週土曜日には必ずニューヨークへ行ってテレビ番組に生出演しなければならなかったのだ。

パーカー大佐は次に、視聴率の高い西海岸発の全米ネット番組『ミルトン・パール・ショウ』にエルヴィスを出演させた。
4月3日に放送さたときの推定視聴者数は4000万人ともいわれるが、エルヴィスは一気にロックンロールのスターになっていった。



そして4月21日には「ハートブレイク・ホテル」が全米ナンバーワンのシングルとなり、およそ2ヶ月間もトップの座をキープして人気を不動のものとする。
続く6月5日の放送でエルヴィスは「ハウンド・ドッグ」の後半に突然、テンポを落としていつも以上にセクシーさを強調したパフォマンスで歌った。

ところがその放送を見ていた保守的な大人たちの間から、「歌う動作があまりにも下品で猥褻だ」と怒りの声が上がり、マスコミが取り上げて物議をかもしていった。
ニューヨーク・タイムズ紙のテレビ評論家ジャック・グールドは、エルヴィスを非難するためにこんな言葉でエルヴィスを貶めた。

ミスタ・プレスリーには、これといって歌唱上の才能は認められない。
得意とするのはリズム・ソングであり、うたい方は、べつにどうということもないあわれっぽい泣き声でわめくだけのものだ。
フレージングと呼べるようなものがあるとするならば、それは、歌の素人が風呂につかりながらうたうあの月並みな下手さかげんでしかない。
聞かされる人はまったく耐えがたい退屈をおぼえ、かつてのパラマウント劇場で熱狂的な日々をつくりだしたフランク・シナトラほどの才能はどこにもなく、ジョニー・レイのようなエモーショナルなすさまじさも、みごとに欠いている。


大多数の大人たちはエルヴィスの才能に気づかないまま、テレビ出演のたびに「体の動きが単純下劣」とか「ストリップまがいだ」と非難して気勢を上げた。
少年少女や若者たちに熱狂的に支持されたことで、不安を覚えた親の世代からエルヴィスをバッシングする動きが起こり、性教育や国家利益の話にまで広がって社会問題にまでなった。

保守的な州ではロックン・ロールのコンサートを禁止する動きも強くなるが、その一方でエルヴィスの人気を利用したいテレビ局は積極的に番組で紹介していった。
NBCの「スティーブ・アレン・ショー」は1956年7月1日、タキシードを着せたエルヴィスの前に本物のハウンド・ドッグを置いて、犬に向かって「ハウンド・ドック」を歌わせることにした。
しかしそうした嫌がらせとも取れるような仕打ちも、エルヴィスは犬を可愛がりながら何なくこなして最後まで歌いきった。

ファンには悪評だったが「スティーブ・アレン・ショー」の視聴率は55パーセントもの数字をはじき出し、ライバル視していたCBSの「エド・サリバン・ショー」に大差をつけた。
その出演料は7500ドルだった。



放送の翌日にレコーディングされた「ハウンド・ドッグ」は、8月18日から11週間にわたって全米ナンバーワンに輝いた。
「エルヴィスなんか絶対に出演させない」と公言していたエド・サリバンだったが、ここに来てにパーカー大佐と交渉して1956年9月9日から3回にわたる出演契約を取り付けた。

このときには1回につき1万ドルという破格の出演料を提示したが、「エルヴィスの人気は、今やロケットのように急上昇している」と、パーカー大佐は合計5万ドルを要求した。
どうしても最高視聴率を叩き出したかったエド・サリバンは、3回の出演料に5万ドルを払う決断をする。

エルヴィスは1回目の出演で9月9日、「ドント・ビー・クルーエル」、「ラヴ・ミー・テンダー」、「レディ・レディ」の3曲を歌った。
視聴率は番組始まって以来最高の82.6パーセントを記録し、アメリカ人の5400万人がそれを見たことになった。
まだレコード発売1ヶ月前だった「ラヴ・ミー・テンダー」は、予約だけで100万枚を突破してゴールド・ディスクを獲得した。


ところで最初の2回はエルヴィスの歌う全身像が、そのままテレビでオン・エアーされていた。
しかし「エド・サリバンよ地獄に落ちろ」という抗議が殺到したために、1957年1月6日の3回目は腰の動きを見せないようにとの配慮で、エルヴィスの下半身を映さないことにした。
そしてエド・サリバンは番組の最後に「エルヴィスは実に礼儀正しい青年だ」とコメントした。

そのせいもあってか、その後はエルヴィスへの風当たりが徐々に和らいでいった。
もちろんソフトな名曲の「ラヴ・ミー・テンダー」が大ヒットした影響も大きく、エルヴィスは国民的スターになっていくのである。

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