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ロサンゼルスで生活しながら音楽漬けになってアルバムを作ることの重圧~春日博文の静かなる復活②

2018.08.26

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1975年は日本のロックバンドの全体が活気づいて、時代の風が吹き始めているといった雰囲気があった。

福島県郡山市で74年の夏に開催された手作りのイベント「ワン・ステップ・フェスティバル」が、おそらくはその発火点になったと思われる。
<参照コラム「街に緑を、若者に広場を、そして大きな夢を」~1974年の郡山ワンステップフェスティバル>

初のオリジナル・アルバム『一触即発』を発表した四人囃子は、プログレッシヴ・ロックのバンドが日本にも登場したとして脚光を浴びた。



デビュー・アルバムを73年に出した時点で、一歩も二歩も先行していた加藤和彦が率いるサディスティック・ミカ・バンドも、郡山に参加していたグループだった。
彼らはキャロルとのジョイント・ツアーなどのライブ活動を行いながらも、1974年に新しい方向へと大きく足を踏み出している。
イギリスからプロデューサーのクリス・トーマスを迎えて、セカンド・アルバムのレコーディングを東京で敢行したのだ。

そのアルバム『黒船』が11月5日にリリースされると、日本のロック史に残る傑作という評価を得て、ロックシーンがこのあたりから勢いづいていった。
(なお翌年にはアメリカやイギリスでも『黒船』がリリースされて、その評判が上々だったことでロキシー・ミュージックとの全英ツアーが秋に実現している)



デビュー・シングルの「午前0時のスケッチ」から2ヶ月、満を持したかのようにファースト・アルバム『カルメン・マキ&OZ』が出たのは1975年1月21日だった。
圧倒的な存在感でシャウトする女性ヴォーカルと、ヘヴィーなサウンドによる日本語のロックは画期的で、アルバムは地味な動きだったが、いつしかロングセラーになっていった。

そんは彼らには5月のグランド・ファンク・レイルロード来日公演の後も、ビック・コンサートからの出演依頼が続いた。
ちょうど同じ頃に「ワン・ステップ・フェスティバル」に出演していたイエロー、シュガーベイブ、クリエイションといったバンドが、相次いでファースト・アルバムを発表している。





内田裕也が中心になって開催された最大級のイベント「ワールド・ロック・フェスティバル」が札幌、名古屋、京都を経て、後楽園球場で行われたのは8月7日である。(その後に仙台でも開催された)
午後1時55分にアメリカン・バトンガールズによるセレモニーで始まった東京公演は、日英米のバンドが以下の順で30分から50分ほどの持ち時間で演奏を披露した。

1、イエロー 
2、ジェフ・ベック・グループ 
3、カルメン・マキ& OZ 
4、クリエイション 
5、四人囃子 
6、ニューヨーク・ドールズ 
7、フェリックス・パパラルディ with ジョー 
8、内田裕也 1815ロックンロールバンド

このイベントの趣旨は”日本のロックで世界を目指す”というところにあり、オルガナイザーとして内田裕也がしかけたものだが、サポートしていたのはレコード会社で働いていた洋楽のディレクターたちだった。
これをきっかけにしてクリエイションは翌年、フェリックス・パパラルディのプロデュースによるアルバムを制作し、世界進出を果たす。



カルメン・マキ& OZ は活発化したライブと並行する形で、新曲のレコーディングも行っていたという。
ところが10月の段階でそれまでの作品が、いずれサウンドに納得がいかないとの理由で没になった。
そこへカルメン・マキ&OZのレコードを制作していたレーベル、キティ・エンタープライズの創立者だった多賀英典から、異例とのいえるサジェッションがあったことで事態は大きく変わっていくことになる。

多賀はアルバム制作に関わるバンドのメンバーとスタッフに対して、ロックの本場といわれるアメリカのロサンゼルスに滞在し、心ゆくまで時間をかけたレコーディングでサウンドを追求したらどうかと提案してきたのだ。
それにかかる経費はすべて、キティが面倒をみるという好条件だった。

井上陽水や小椋佳のアルバムをロングセラーにしてヒットさせていた多賀は、日本のレコード業界で最初にアルバム・ビジネスを成功させたプロデューサーである。
ロックが生まれてきた場所や空気に接することで、アーティストとスタッフに才能を伸ばしてもらいたいという考えは、いかにも多賀らしい発想だった。

アメリカの西海岸で1960年代から70年代にかけて著しく発展した産業としてのロックは、その頃から世界の音楽シーンに大きな影響を与えていた。
そうした状況を自分の目で見たスタッフが、帰国後の仕事にそれを役立ててもらうためには、ちょうどいい機会だった。

その結果、それまで関わってきたポリドールのレコーディング・エンジニア、コンサートのPAエンジニア、照明のスタッフ、それにバンドのローディーまで、多い時には11人ものスタッフやその家族までが、ロスに滞在することになったという。

海外レコーディングそのものは珍しくはなくなっていたが、そこまで時間と予算をかけたアルバム制作は、当時としても異例なことだった。
メンバーに同行して滞在中の面倒を見てきたキティー・エンタープライズの宗像宗男が、その点について冗談まじりとはいえ、このように語っていたのが印象に残っている。

「彼らを音楽漬けにしたかったのです。正直言って、レコードが出来上がるかどうかは期待しなかった」


もちろん、カルメン・マキ$OZにとっては、その時点で最高のアルバムを完成させることが目的である。
こうして2月の末に渡米して6月に帰国するまで、3か月以上もの時間を要して行われたレコーディングで、セカンド・アルバム『閉ざされた町』が制作されることになった。

しかし理想的と思える環境だとはいっても、何もかもが初めてという手探り状態のなかで、ファースト・アルバム以上の作品を仕上げることへのプレッシャーは、おそらく想像以上に大きかったと考えられる。

バンド結成から3年半、ほぼ全曲で作曲とアレンジを担当していた春日博文は、身体が大きくて態度も大きかったが、76年2月にロサンゼルスへ旅立ったときは、まだ22歳になったばかりであった。






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