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追悼・前田憲男~木の板に白と黒の鍵盤を書いた音が出ない”木(キ)ーボード”を弾いて練習していた天才少年

2018.11.29

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学生時代の宮川泰は京都の美術大学に籍を置きながら友達とバンド組んで、夜は大阪のナイトクラブなどで演奏していた。
どういうわけか宮川は人の演奏を真似て弾くのが得意で、誰か上手なピアニストがいると、その人の弾き方をそっくりに演奏するようになっていく。

当時は一口にジャズといっても、演奏する側に音楽的な理論があってやっているわけでもないんですが、ありがたいことに聴いている側はもっとわかっていない。要は「なんとなくカッコイイ」という共通認識の下で需要と供給が噛み合っていたんです。だから当時の演奏の上手い下手を決める目安は、「上手いといわれているプレイヤー」に似ているか否か--が唯一の判断基準だったんですね。おかげで僕みたいに人の真似をして演奏するやつはそれだけでお金が稼げるという、なんともいい加減な時代だったんです。
でも、そんなことをしているうちに、上手い人の真似がきちんとできれば、それが次第に技術に変わっていくことに僕は気がつきました。




1950年代前半の大阪にはピアノの上手なプレイヤーがあちらこちらにいたというが、そんな人たちの演奏を聴いて真似することで、宮川は自分の技術をステップ・アップさせていったのだ。
自分がトップクラスだとひそかに自負していた宮川は音楽の道で生きていくことを意識して美大を中退し、あらためて大阪学芸大学音楽家に入学し直して、基礎的な理論から勉強した。
そんな21歳の宮川の前に現れたのが、まだ高校生だった前田憲男である。

伊丹の米軍キャンプで天才少年がピアノを弾いているという話を聞いたとき、宮川の心はライバル登場に穏やかでなかったという。
そうこうするうちに宮川が出演してたクラブを訪ねて、学生服に学生帽の前田少年がやって来た。

「宮川さんですか。はじめまして、前田と申します」とていねいに挨拶した前田少年は、大きな録音機を下げていた。

「おう、なんや?」
努めて冷静に対応する僕。
「宮川さんの演奏を録音させていただいてよろしいでしょうか?」
「なんや、オレのピアノを勉強したいのか? ええ心がけや、よく聴いて勉強せいよ」


すっかりいい気分になった宮川は後輩にいいところ見せたくて、当然だがいつもよりも一生懸命に演奏をした。
その間、前田少年は表情も変えずに演奏に聴き入っていたが、曲が終わると録音機を片付けてから、「ありがとうございました」と挨拶して帰っていった。

それから1週間後、「宮川さんの演奏を練習してきました」といって、ふたたび前田少年が現れた。
そして本人の目の前で、1週間前に演奏した通り、まったくそのままの演奏を、目をつぶって完璧に再現してみせたばかりか、その先まで指し示したのである。
宮川はあまりの出来事に驚いて、自著の中でこのように記していた。

それだけじゃありません。さらに続けて少年は、
「僕だったらこういうアレンジにします」
といって、ものすごくかっこいいアレンジでバリバリ弾いちゃうんです。これにはおったまげて腰を抜かしそうになりましたよ。完全に僕の負けです。お手上げ。
「き、き、君、す、すごいね」
「いえいえそんなことありません」
年下のくせにやけにクールなんです。
以来その前田少年とは音楽においてはライバルとなり、公私ともに生涯にわたる大親友となるわけですが、その頃はその少年が将来日本を代表する編曲家・前田憲男になるとは思ってもみませんでした。


やがて高校を卒業したプロになった前田は、東京のジャズ界から引っ張られて1955年に上京することになった。




大阪のミュージシャンにとって東京に出て行くというのは、ちょっとしたお祝い事だったので音楽仲間たちが大阪駅まで見送りに集まった。
その時に前田が何やら包みを開けて板状のものを宮川に差し出して、「これあげますよ」と手渡したものがある。

その板状のもの受け取ってよく見ると、それはやっぱり「板」でした。その板には白い紙が貼られていて、その上に黒鍵代わりの木片を細かく切って墨汁か何かで黒く塗って、ピアノの鍵盤とそっくりに貼り付けてあるんです。訊けば、前田さんはピアノを買うことができずに、板に自分で鍵盤を作って貼り付けて、これをキーボード代わりして練習をしていたっていうんです。

当時すでに大阪では名実ともにナンバーワンの実力者として君臨していた前田さんが、こんな板切れでピアノの練習をしていたのかと思って知って、驚愕に体がガクガクと震え、感動に頭はドカンと打ちのめされたものです。
何しろただの板だから当然音も出ない。最初は白かったであろう鍵盤も、前田さんの指垢と黒鍵の色が移ったりして黒光りさえしている。もうね、ちょっとした骨董品のような趣のあるシロモノですよ。それを見て僕は、
「ああ、この人は本当に立派な人だ。僕も前田さんのように立派な人間になろう!」
と決意しました。


前田の方が歳は下だったが、もう年齢なんか関係なかったという。
当時は宮川もピアノを持っていなかったし、何より前田からもらったことがありがたくて、しばらくはそのキーボードで練習した。
その後もずっとお守りがわりに大事にしまっておいたそうだ。

しばらく大阪で勉強していた宮川もまた翌年には東京に出て活躍し、1958年から渡辺晋とシックスジョーズのピアニストになり、そこから編曲家として一気に頭角を現していった。
その後はお互いに日本の音楽シーンを牽引する編曲家として、ともに仕事ができる機会も増えていくのであった。





〈参考文献〉文中に引用した宮川泰氏の発言は、著書「若いってすばらしい 夢は両手にいっぱい 宮川泰の音楽物語」(産経新聞出版)からの引用です。

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