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小椋佳のファースト・アルバム『青春―砂漠の少年―』が1971 年に世に出るまで

2019.01.18

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1966年の春に東京大学を卒業した神田紘爾(かんだこうじ)は、日本勧業銀行(元・第一勧業銀行、現・みずほ銀行)に就職した。
それからしばらく時が流れて、学生時代にしばらく師事する形になったアングラ劇団「天井桟敷」の主宰者、作家で詩人の寺山修司から電話がかかってきたのは1969年のことだ。

「青春群像を描くLP レコードを作っている最中なのだが、君も来て参加しないか」


銀行マンになっていた神田だったが、その誘いに応じて天井桟敷の自主制作アルバムには歌で参加することにした。
内容は寺山修司作詞、和田誠作曲による作品を、10 名ほどの若者が歌うというものだった。、

深く考えることもなく3 曲を歌いました。 『初恋地獄篇』とタイトルがついて発売されたアルバムは、あまり売れるとも思えないアングラLP でしたが、この時に初めて「小椋佳」という名前が使われたのです。




それが世に出てしばらくたった頃、ポリドールのディレクターと名乗る人物が、銀座支店で働いていた神田を訪ねてきた。近くの喫茶店で会うことになったその若い男性は、多賀英典という名刺を出して自己紹介し、「探したよ。君が小椋佳だね」と切り出してきた。

多賀は『初恋地獄篇』で小椋佳の歌声を聴いて、新人歌手として売りだせる才能だと感じたので伝をたどって、本人を訪ねてきたのである。
しかしなんとなく想定していた美少年タイプではなく、銀行員で既に所帯を持っている25 歳、おまけに容姿端麗とは言い難いルックスだった。
したがって多賀の中では会った瞬間、新人歌手として売り出すという計画は消えたようだ。

ところが話をしていくうちにお互いに気持ちが通じてきて、神田は自分で創っていた歌を多賀に聴かせる機会を得た。
すると新人歌手としては難しいが、ソングライターとしての小椋佳作品ならば、これからも使っていきたいという話になったのである。

そこで多賀は小椋佳の作品にふさわしい歌手を探すことにしたのだが、イメージが合う新人の発掘はなかなか遅々として進まなかった。
そんな状況に避けがたい変化が起こったのは、銀行マンとしての仕事の都合によるものだった。

その間、私の銀行勤め事情に変化が起きていた。選抜試験を経て、若手若干名を海外の大学院へ派遣する留学制度が始まったのである。資格は日本勧業銀行で行員歴 3 年以上という一点。私は4年目でこの留学試験に応募し、幸い第2 期留学生として選抜された。


多賀は神田が海外へ行ってしまうことになったので新人の探索を断念し、ひとまず作品を残すためにも「君自身に歌っておいてもらおう」と判断した。

こうして発売される目途もないままに始まったアルバムのレコーディングは、忙しい銀行勤めの業務に差し支えないようにとの配慮で、延べ半年にわたって8 曲分の収録を終えたところで時間切れになった。
しかし、多賀は「俺はこの声質とピュアな気持ちを世に出したい」と思うようになった。

8 曲ではLP レコードとして商品化するには不足だったので、多賀はおよそ20 分ほどの台詞(せりふ)を書いて、それを若手映画俳優の岡田裕介と森和代の2 人に朗読してもらった。
語りの部分を曲と曲の間に挟み込むことによって、LP レコードを完成にこぎつけるためだった。

ところが音源が出来上がってからも発売をめぐってさまざまな紆余曲折があり、たびたび暗礁に乗り上げることになったが多賀は最初のひらめきと強い意志を持ち続けた。

アルバム『青春~砂漠の少年』は多賀の熱意と精一杯の知恵によって、1971年年1月15日にようやく日の目を見ることになった。 
それから3日後の1月18日、小椋佳は留学中だったアメリカで27歳の誕生日を迎えている。



日本での動きがほとんど入ってこないアメリカで生活していた小椋佳は、後で聞かされた話としてさまざまな紆余曲折の末に、多賀が執念でこぎつけたリリースだったと述懐している。

「こんなもの売れないよ」が会社幹部たちの通説であったこと。それに逆らって「分からず屋の役員たちめ!」と社内で運動を起こした多賀氏がディレクター職を降ろされて一時大阪の営業員に回されたこと。映画監督森谷司郎さんとの出会いがあり、森谷監督がメガホンを取る正月映画で私の歌の何曲かを流すことが決まったこと。その正月映画が封切られ、1971 年1月 15 日ようやくに私の処女作 LP『青春―砂漠の少年―』が発売される運びとなったこと……。どれも後になって聞かされた話である。


だが、いざアルバムが1月に発売されると、最後に入っていた「さらば青春」がリスナーに発見されて、口コミとラジオで広く伝わり始めた。


やがてシカゴの大学院への留学が予定より少々早く切り上げられて、小椋佳は1971 年の半ばに帰国することになった。
そこから銀行マンとシンガー・ソングライターの両立が始まっていく。

アルバム『青春―砂漠の少年―』がロングセラーを記録したことによって、日本の音楽シーンには”ニューミュージック”という、新しい分野が生まれていった。


(注)小椋佳氏の発言は、「私の履歴書」小椋佳 (日本経済新聞2016年1月1日~31日掲載)からの引用です。

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